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ひざくりげ その53 コモド島とこの1年を振り返って

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南海嬉嬉内島伝その12 コモド島沖の船中にて

今僕は、コモド島沖の船の上、満天の星の下このレポートを書いている。バリ島から東へと連なるヌサトゥンガラ諸島にあるフローレス島の港町・ラブアンバジョ。ここから、かの有名な巨大オオトカゲ「コモド・ドラゴン」が生息しているコモド島までは目と鼻の先だ。インドネシア滞在最後の旅と決めてフローレス島まで来たのだから、コモド・ドラゴンを見ずして帰るわけにはいかない。そう思って参加したコモド島周遊一泊二日のツアー。蓋を開ければ、沖縄在住でハブを研究しているロシア人、ハンガリー人カップル、イスラエル人カップル、ノルウェー在住のドイツ人、ヒスパニックのカリフォルニア人他多数と小船でツアーを共にすることになった。西洋人特有のイェーイって感じの社交性に、日本人特有のシャイさをもつ僕(と言い切っていいのか、自分の問題か?)は全くついていけない。しかも、ツアーを予約しに行った時には知らされていなかったコモド島沖での船中泊。ツアーの興奮とビールの力で、さらに陽気になっている他の乗船客に完全に置いてけぼりを食ってしまい、冒頭で記したように星を見ながらひとり、レポートを書くことにした。23467292_882702658553754_2872487123151074326_o 23415166_882702815220405_1731249763751995921_o

インドネシアの中で、今もっとも観光化の期待が高いと言われるフローレス島。「今のうちに行っておかないと、バリ島のような観光地になってしまうよ」と多くの友人から勧められた。東西に延びた島は、どこまでも峻険な山が続く。南の島特有の熱帯ジャングルを想像していると大違い。乾燥して埃っぽく、山間では長袖を着ていないと寒い。どことなく日本に似た雰囲気をもっている。のべ15時間乗車した内陸のバス移動はそのほとんどが峠越えで、ガードレールもない崖道を猛スピードの車が行き交う。南の島にちょっと遊びに来た、という気分でくると返り討ちにあう。

バリ島から東の島々では伝統的にイカット=絣が有名で、このフローレス島でも点在する部族がそれぞれ独自のモチーフを持っている。ジャカルタの新聞社で働く友人から聞いた話によると、フローレス島中部の村には、いまでも天然染料と手紡ぎ綿でイカットを作っているおばちゃんがいるという。今回の旅はその人に会いに行くのが主な目的だった。

23316443_882702351887118_3602780794075848086_nフローレス中部のエンデ空港から車で2時間かけて、イカットおばちゃんの住むケリムトゥ山麓の村に行く。村までの道すがら棚田が幾重にも連なっている。大きな岩がゴロゴロと転がる峠道は、今でも落石事故が多い。道路の舗装工事が盛んに行われていて、なるほど観光化が進んでいるというのはこういうかと思う。村人に聞いて訪ねたトタン屋根の粗末な家から、140cmくらいの小柄なおばちゃんが出てくる。彼女がイカットおばちゃんである。まるっとしていてチリチリの癖っ毛は、バリによくいるマレー系民族とは明らかに違う、パプアやオーストラリアあたりに雰囲気だ。ジャカルタの友人を介して事前に連絡していたので、気さくにイカットについて教えてくれる。

まず驚いたのは、現在フローレス島で、天然染料と手紡ぎ綿を使ってイカットを織っている人はこのおばちゃんただ一人とのこと。部族ごとのモチーフは今でも継承されているが、染料や糸は工場で作られたものがほとんどだそうだ。機織り自体も、機械を使わず地べたに座り、柱に引っ掛けた縄を腰の後ろに回してテンションをかけ、縦糸と横糸を織っていく古典的な方法だ。染料は藍、ウコン(驚くほど鮮やか!)木の根、土など庭で採れるものを使う。後日フローレス島内の別の村のおじいちゃん(自称80歳)に聞いたところ、綿花に関しては、戦中に日本軍が大量栽培を始めたそうで、「あんたら日本人のおかげで、わしらはイカットが作れるんじゃわ~」とのこと。悲しい記憶の多い戦争の話の中で、そのようなことを聞けて少しホッしたりもする。

「Iさん(ジャカルタの友人)に言われたからね、あんたにはうちにある最高の布を見せてあげる」イカットおばちゃんはそういって、代々この家に伝わる布たちを次から次へと出してきた。この村のイカットは2枚の反物を縫い合わせて筒状にした腰巻になっていて、ざっと見積もっても50枚以上は見せてもらった。最も古いものは彼女のおばあちゃんが作ったもので、約100年前に製作されたそうだ。天然染料でここまで鮮やかな色が出るのか!人の手によって紡がれた糸はこんなにも柔らかいものか!驚きの連続だった。イカット製作は長いもので2年かかるという。その製作過程の過酷さは容易に想像できた。これはすでにファッションという括りにはおさまらない、彼女たちのウレシイやカナシイやツライやイヤダイヤダの全てが染め込まれ、織り込まれた、人の生きた証そのものだった。23331447_882702411887112_5110724250236941621_o 23275363_882702468553773_3497964893531845076_o

それらを見ていたら、なぜだかとても悲しくなった。いや、嬉しかったのか。そのどちらとも判別できない感情が湧いてきて、ただ泣きたくなった。これは本当にここにしかないものだ。このイカットたちは、ここにしかない!と叫びたい、ものすごいリアリティだった。そうなんだ、僕はこの1年は、このリアリティを探して、土地に生まれる芸術=芸能の必然性と必要性を考えたくてインドネシアに来たのだった。イカットおばちゃんとその先祖たちが作った布は、とてつもない存在感を放って、過去から現在を貫いていた。ただひとつのことに真摯に向き合って作られたものと、そのために積み上げられた時間の跡を、僕は今一番渇望していたのだった。

そして改めて、ワヤン(古典影絵)を学びにきたことを考えた。

幸運にも身に余る賞をいただき、ずっと挑戦したかったバリ島のワヤンを学ぶ機会を得た。難解な言語習得、物語を語ること、歌うこと、人形を使い音楽を指揮し、登場人物たちを自ら作る、そういったワヤンの具体的な技術習得を通じて、影絵とはなんなのか、芸能とは一体なんなのかを考えたかった。

23270205_882702538553766_8187483271256225554_o-1師匠のナルタさんは、小柄でものしずかなおじいちゃんだ。しかし、ワヤンを語る時の彼は村に生えるガジュマルの大樹のように大きく見えた。島のあらゆる命と寄り添いながら生きてきた彼は、まさにこの島の賢者である。彼の知識は、大樹が他の木々と絡み合いながら根をはるように、ありとあらゆる島の物語とつながっている。何も知らない僕は、その大樹が広げる大きな枝葉の木陰で、熱帯の陽炎を眺めるように、深遠なるワヤンの世界の一端を見ていた。ある時、ナルタさんにワヤンとはどういう意味ですか?と聞いてみたことがあった。それまで、あまりにも当然すぎて考えもしていなかった問いだった。師の答えは「ワヤンは現実と非現実の【間】だよ」だった。影絵でも人形でもなく【間】という答えに驚いた。それを聞いて一つの仮説が浮かんできた。ワヤンとは、人形(現実)と影(非現実)の【間】で、知覚し得ないものと交信する装置なのではないか?光がある瞬間から影はある。ということは僕たち生命が誕生するはるか昔、宇宙ができたその時から影はあるのだ。だとすると影を扱うということは、僕たち生命の認識を超えた何かにアプローチすることなのではないか?ナルタさんはまた「影絵を見ているのは、人間だけではない。この土地の神様やわしらのご先祖様も見に来ている。だから失礼があってはいけない」という。現実と非現実の【間】は、目に見える僕たちと目に見えない土地の神や先祖をつなぐ役割を果たす。僕たちは自分たちの土地や先祖を想うとき、普段は眠っている自分たちの過去と対峙することになる。僕たちの過去は、今を生きる僕たちに問いかける。「お前は精いっぱい生きているかい?」

イカットおばちゃんの布たちと、ナルタさんの語るワヤン・クリットと、この南の島々に息づく多くの芸能は、僕に自分のあるべき姿をそっと教えてくれる。僕は10代の終わりからインドンネシアに関わり、20年近く経つ。日本と南の島々との文化の【間】で、ふらふらとバランスをとりながら今まで生きてきた。片方の文化からもう一方の文化は想像の世界=非現実とも言える。言い換えれば、僕は現実(日本)と非現実(南の島)の【間】にずっと身を置いていた。僕がワヤン・クリットに惹かれていったのは、そのような【間】を感じていたからなのかもしれない。

この1年でわかったことよりもわからないこと、知りたいことが何倍にも増えた。一つの謎が解けると、また新しい謎が待っている。多くの疑問を持つということは、それだけ新しく何かを作れるということだ。こんなに幸せなことはない。それがわかっただけでも、実り多き1年だった。

他の乗船客はみな寝てしまった。明日は海から上がる朝日を見に行くらしい。僕もそろそろ眠ろうと思う。おやすみなさい。

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あとがき

1年という、長いようで短いインドネシア滞在をまもなく終えて帰国します。30代で、これといった制約もなく海外で勉強していい、という夢のような出来事がまさか自分に訪れるとは思ってもみませんでした。これは大いなる思し召し!と、今後も大切にしたいと思っています。帰国後も、日本を中心にいろんな場所で発表を続けさせていただければと思っています。謎の影絵をやっている奴がいるらしいぞ?という噂など聞きましたら、それは僕の可能性が高いので、是非ともお越しいただければ幸いです。その際は大きなクエスチョンマークをお返しできればと思います。

インドネシア滞在の連載を依頼をしてくださり、バリ島にも会いに来てくれた昌福寺の岩間さんご夫妻、大変お世話になりました。今回のエッセイは自分にとって大切なものになりました。そして、まるで日本と接点のないマニアックな内容と拙い文章におつきあいしてくださった読者のみなさま、ありがとうございました。最後に僕のわがままな人生に付き合ってくれている妻と、かけがえのない娘にも最高の感謝を。

2017年 10/28 川村亘平斎

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10/8バリ島にて子ども影絵ワークショップ

昨日バリ島デンパサールにあるcush cush galleryにて子供のための影絵ワークショップ。定員の3倍くらい来て大盛況

cushcushgallery.com/ccg

https://www.facebook.com/pg/ccgbali/photos/?ref=page_internal

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ライフワーク的にやっているご先祖様を影絵人形にするワークショップをやったが、さすがインドネシア、血をたどっていくと、スマトラ、ジャワ、バリ、カリマンタン、スラウェシ、一番遠くはスペインの人もいた。動物や火星人作る子もいて、たしかに元をたどると僕らは動物だったってことか?と考えさせられたりした。このワークショップをもとに来年二月に作品を作る。

22308858_1298359993620687_6064337329485177201_n22279834_1298360013620685_4899695052657672943_n  22222001_10155153748314492_263431034244532862_n 22281561_1298360083620678_6658464552647702776_n 22228402_10155153748119492_3841079760196112045_n  22228227_1298360110287342_7002339510098801469_n 22308702_1298360016954018_8289865972338503637_n  22281657_1298360090287344_8513449887469672609_n

ひざくりげ その52 僕の知らないマルク諸島

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22228356_867901306700556_7717930505088357316_n『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』──昌福寺の花祭をめざして──
第十一話 僕の島と祖父の島~マルク諸島周遊記

 バリ島で古典影絵【ワヤン・クリット】のお試し上演という大きな山を越えたので、インドネシア滞在中どうしても行っておきたかった場所に旅に出ることにした。マルク諸島である。

 

日本人には馴染みのないこの地域への旅を計画した目的は2つあった。
1つ目の目的は、スラウェシ島最北の港町マナドに行って、架空の島【ワラケ島】を探すこと。ワラケ島は僕が作った架空の島なのでどこにあってもいいのだが、折角だからインドネシア領内にあるといいなと思い、インドネシア北部のスラウェシ島周辺にあることにしている。「よく晴れた日はマナドからもワラケ島がうっすら見える」的な設定も考えていたので、いつか本当にマナドからワラケ島を見れたらワラけるなぁ、と夢想していた。
2つ目の目的が、スラウェシ島の東にあるハルマヘラ島に行くこと。ここは戦時中に母方の祖父が従軍していた島である。僕がインドネシアと関わりを持ってしばらく経った頃、叔父から「kepala bagusってインドネシア語らしいけど、意味しってるか?」と聞かれて驚いたことがあった。kepala bagusは、インドネシア語で「頭が良い」という意味。叔父は、亡くなった祖父からその言葉を聞いたそうだ。第二次世界大戦時、祖父はハルマヘラ島へ行き、島の族長と仲良くなっていくつか言葉を覚えたらしい。その話を聞いて以来、何か運命めいたものを感じて、いつか行ってみたいと思っていた場所であった。
この二つの島(一つは架空ですが…)は、比較的近くにあるので合わせて行けるだろうと以前から考えていた。さらに最近は格安飛行機でインドネシア内どこでも行けるようになったので、マルク諸島にある他の島、テルナテ島とアンボン島も行ってみることにした。

22282050_867901360033884_7582222225260534582_n 22279819_867901440033876_104080116097591639_nバリ島から飛行機で北東に3時間。スラウェシ島最北の街・マナド。ここからワラケ島を眺める、という第一ミッションはすぐ終わってしまいそうなので、ついでにシュノーケリングもやることにした。マナドといえば世界屈指のドロップオフ(海の中の崖)で有名なダビングスポットである。

朝、港で小型ボートをチャーターする。マナド沖からワラケ島を探しつつ、ダイビングスポットであるブナケン島へ出発する。港を出ると、前方にきれいな山の稜線を持つマナドトゥア島とブナケン島が並んで見えてくる。その先にも小さな島々がポツポツと連なって見える。船員のおっさん達は慣れた手つきで舟を操縦している。時たま飛び魚が舟の前を横切っていく。ブナケン島のそばまで来るとサンゴ礁の浅瀬が続く。海の透明度がものすごく高い。カラフルなサンゴが船の上からも良く見える。かと思えばサンゴ礁の途切れた先はゾッとするほど青黒い。そこから先は底なしのドロップオフがあるらしい。

22279529_867901503367203_4583100540372492322_n ブナケン島に到着して、いくつかのスポットをシュノーケリングで泳いでみた。こんな配色ありなのか?と思うようなカラフルな魚、巨大なサンゴ、亀たち、吸い込まれそうな海の崖。崖の先には無のように広がる深い青、怖いような、美しいような。これに似た感覚を最近味わった。しばらく考えて思い出したのは、カリマンタンで行ったジャングルだった。うっかりすると死んでしまいそうな圧倒的な自然。
この海では昔からナマコ漁が盛んで、乾燥ナマコは今でも中国や日本に高価な値段で売られている。近年では生きた化石シーラカンスも捕獲されたようで、なかなか興味深い場所である。
自分で設定しときながら「ワラケ島ってこんなところにあったんだなぁ」と感心した。ものすごく美しい海と海洋資源に囲まれていて、ワラケ島民はさぞかし幸せだろう。残念ながらその日ワラケ島を発見することはできなかったが「よく晴れた日はマナドからもワラケ島がうっすら見える」らしいので、また来ることにした。

22222012_867901546700532_707859315607714178_n 翌朝、プロペラ機に乗ってハルマヘラ島へ行く。インディージョーンズの飛行機みたいのを想像していたら、意外にちゃんとしていて機内は満席だった。上空からは鬱蒼としたジャングルしか見えない。旧日本軍が作った飛行場に降りると、掘っ建て小屋のような空港がある。ついに祖父のいた島にきた。
ハルマヘラ島は四国と同じくらいの大きさで、観光地・マナドに比べてたいへんのどかなところである。ハルマヘラ島の北西半島の東岸にあるカオ空港で車をチャーターして、島の西岸にある港町・ソフィフィに向かう。たまにすれ違う対向車にクラクションを鳴らして挨拶するのが、ハルマヘラ流。海岸線をはしる驚くほどきれいな舗装道路、整理された椰子畑。お昼ご飯にワタリガニの定食を食べたり、旧日本軍が置き忘れていった座礁船を見たりしてのんびり走る。
22279514_867901650033855_9054056755185132770_n     22279615_867901733367180_7814380567006601302_n いつの間にか島を横断する山道に入っていた。ぼんやりと外を眺めていると、同じ種類の樹が沿道に大量に植えられているのに気づく。運転手さんに「この木はなんですか?」と聞くと、答えは「Cengkeh(クローブ)」だった。実はこのハルマヘラ島と翌日向かうテルナテ島は、ヨーロッパが香辛料貿易のためにやってきた最初の場所【マラッカ】だったのである。まさかこんな辺境の島が、その昔ヨーロッパを沸騰させていたとは信じられなかった。そしてなにより、教科書でただぼんやりと覚えるだけでリアリティのなかった歴史と、昔話のように聞いていた祖父の戦争体験とが交錯した現場に自分がいる、というのは想像以上に強烈な体験だった。
ちなみにクローブは、今でこそカレーなどを作るときにしか使われないが、当時は肉を腐らせないための防腐剤として重宝されていて、クローブと金は等価だったそうだ。

22309023_867901843367169_43225065042077054_n クローブの森を抜けて、小さな港町ソフィフィで一泊し、翌朝フェリーでテルナテ島に向かう。晴れた朝、港から海を見渡すと、双子のようなテルナテ島とティドレ島がよく見える。アウトリガーの小舟やスピードボートが、島々の間をひっきりなしに行き交っていて、まるで瀬戸内や日本の離島のような景色である。
外周48kmしかないテルナテ島には、ガラマラ山という1715mの火山があり、海岸線を除いて島の道はほぼ坂道である。なんとこの島は13世紀に興った巨大海洋国家・テルナテ王国の首都であり、香辛料貿易の中心地であった。最盛期はスラウェシ東北部、マルク諸島、小スンダ列島、パプア西部までを治めていた。今もマルク諸島をつなぐハブ空港として利用されていて、島にある巨大モスクには他島からの巡礼者も多く、島は大変な賑わいである。僕がこの旅で知りあった人々の多くは、今でもテルナテのスルタン(王様)に対して帰属意識を持っていた。
22228283_867901886700498_4565404959165863636_n どうしてこんな小さな島にそのような大きな王国があったのか、全くもって不思議である。そんな疑問を地元の運転手さんにぶつけてみると、テルナテ王国繁栄の伝説を教えてくれた。これがびっくり、日本でもおなじみの羽衣伝説だった。後半の内容は違うものの、冒頭「島に住んでいた一人の男が天女の羽衣を隠して、天界に帰れなくなった天女を妻にもらって…」というのは一緒だった。テルナテ版羽衣伝説の後半に登場する二頭のガルーダ(神鳥)は、テルナテ王朝のシンボルになってたり、同じく伝説に登場する4人の王【raja ampat】は、そのまま西パプア州の地名にもなっていたりして、伝説の名残を残している。

港から車で30分ほど山の方に上がっていくと、樹齢400年を超えるといわれているクローブの古木に出会える。その周辺の山間には、クローブとナツメグが植樹されていて、収穫期になると山は賑やかになるという。島の西側にある王宮の一部は観光客に解放されている。王宮内ではテルナテ王朝と関係のあった中国、ポルトガル、スペイン、オランダの品々などが見られる。朝市に行くと、カツオやサバ、イカの一夜干しなど日本の市場で売っているようなものがたくさん並んでいる。マルク諸島でよく食べられるサンバル・ロアという調味料は、唐辛子とニンニクとカツオやじゃこを乾燥させてほぐして混ぜたもので、まるでラー油と鰹節の味で感動した。

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マルク諸島の中心地アンボンは、つい数年前までイスラム教徒とキリスト教との宗教紛争が激しく、外国人が行くのは危険だと言われていたが、最近治安が安定しているとの情報を得たので行ってみた。実際のところ、紛争は収まっているがピリピリした空気を感じざるを得なかった。
この島は海が綺麗なのはもちろんのこと、いい音楽と美味しい食べ物でも有名である。あいにく雨だったので海は楽しめなかったが、乗合バス【アンコット】では、爆音アンボンテクノを堪能し、サゴ椰子から作られた信玄餅のようなブルブルしたものを魚のスープカレーで食べたり、例のサンバル・ロアを魚の汁そばにかけて、限りなくラーメンに近いものを食べたりした。
山間では温泉が湧いていて、水着を着た地元民で賑わっていた。サゴ椰子の森の中で入る温泉はなかなかで、仲良くなったおっさんから「アンボンに来たらソフィってサゴ椰子の酒飲んできな!」と言われて、地元の密造酒を探しに行ったりした。

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これといった観光地でもないところで、こんなにもいろいろな体験ができるとは驚きだった。今回は、僕が空想した架空の島と、祖父がその昔従軍した島と、それらを丸呑みしていた大きな王国を知るきっかけとなる貴重な旅になった。

つづく。

 

 

 

 

 

 

ひざくりげ INDA INDO NESIA 10 デワ・ルチ

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

──昌福寺の花祭をめざして──

https://www.facebook.com/shoufukuji/

第十話 デワ・ルチ

210日で巡るバリの暦の中に、鉄を祀る日【トゥンパック・ランダップ】というのがある。元々は剣(クリス)を祀る日だったが、転じて楽器や車、最近はパソコンなんかも祀られる。僕がバリ滞在を始めて数ヶ月たった2月の【トゥンパック・ランダップ】には、師匠の楽器の奉納儀礼に参加した(「バビグリン」の回参照)。そして、9月に再び巡ってきたこの祭日に、僕は滞在10ヶ月をかけて修行してきたワヤン・クリット(影絵人形芝居)のお試し上演をすることになった。

ワヤンを習っているスカワティ村では、この【トゥンパック・ランダップ】に合わせて、影絵人形遣い(ダラン)のお寺でお祭りを行われる。ワヤンの師匠・ナルタさんは、3日間あるお祭りの初日に、僕のお試し上演の時間を作ってくれた。

バリ島でワヤンを上演する場合、人形遣いは必ず通過儀礼を行わなくてはならない。ナルタさん曰く「人形使いが通過儀礼をしなかったり、上演に必要な呪文を知らなかったりすることは、目を瞑って道路の真ん中を歩くようなものだ」とのこと。これはバリ島で昔から信じられていることで、ワヤンを上演することは、目に見えない世界にアプローチすることであり、そういう意味で危険がいっぱいである。そういった危険から身を守るための通過儀礼である。

8月の満月の早朝、スカワティ村の高僧の家で通過儀礼を行う。バリ島の儀礼は謎の所作がたくさんである。交差させた手の甲に中国銭を乗せてそれを払いおとす、木で作ったブラシのようなもので爪を磨く、卵で手のひらに梵字を書く、赤と白の綿糸を耳にかけたり手首に巻いたりetc。通過儀礼に使われる聖水は、黄色い椰子のココナッツジュース。一連の儀礼を経て、晴れて僕は正式なバリ島の影絵人形使いになった。

1ダランの通過儀礼

インドネシア滞在を決めた当初、まさか1年足らずでワヤンを上演できるとは思ってもみなかった。いざ本番を迎えるその日の朝「そもそも、どうして自分はバリ島のワヤンなんかやってるんだ?」という、今更ながら初歩的な疑問が浮かんできた。バリ島において、ワヤンを上演するということは、バリ人の中でさえものすごくハードルの高いものである。まして、外国人がそれを上演するということは、奇跡に近い。しかし、その貴重さは日本の人にはピンとこないものであり、僕の思い入れや努力というものは、そのままストレートに本国には還元されないもの、残酷な言い方をすれば無意味なものなのである。そのようなものにどうして自分がここまで踏み込むことになったのか?それは何処かのタイミングで自分自身が選択した結果の集積であることは間違いのだけど、本番前の緊張も相まって、それは人知を超えたものの仕業のような、とても不思議な気持ちになった。

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僕のそのような気持ちを救ってくれたもの、それは今回上演することになった演目【デワ・ルチ】である。【デワ・ルチ】は、インド伝来の物語【マハーバラタ】を起源とする物語で、ジャワ島、バリ島で上演されるワヤンの有名な演目である。バリ島空港からクタに行く途中のロータリーの石像のモチーフにもなっている。僕は、今回の滞在までこの物語を知らなかった。初めてナルタさんのところに習いにいった時に、ナルタさんが用意してくれた物語がこの【デワ・ルチ】だった。この物語の持つ不思議な説得力に助けられ、上演の日を迎えられた。

ここで【デワ・ルチ】のあらすじを紹介する。前提条件として、マハーバラタの物語は、パンダワという正義の5王子と、コーラワという悪の100王子達による戦記物である、というのを念頭に置いていただきたい。
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【デワ・ルチ】

パンダワ兄弟の次男に怪力無双を誇るビマがいた。ビマの活躍に手を焼いていた敵軍・コーラワ兄弟の長男は、ビマを殺すために彼らの共通の師匠であるドゥルノに嘘をつかせ、あるはずもない聖水をビマに探しに行かせるのであった。

ビマははじめに洞窟へ向かった。そこには2匹の凶暴な龍が住んでいた。ビマはこの2匹の龍を退治するが、聖水は見つからなかった。次にビマはジャングルへ向かうが、ここでも怪物が現れてビマに襲いかかった。ビマはこれも退治するが、聖水はやはり見つからなかった。三度目にビマは海の真ん中へ行けと言われた。ビマの母や兄弟たちは、ドゥルノの度重なる嘘に気づいてビマを止めるが、ビマは「師の教えは死しても守る!」とだけ言ってまた聖水探しに海へ向かった。

大海原に飛び込んだビマは、波にさらわれその命を落としてしまう。するとそこへ小さな小さな神が天空からやってきた。【デワ・ルチ】と名乗るその神はビマを生き返らせて、こう言った。「私の体の中に入りなさい」ビマは半信半疑で【デワ・ルチ】の中に入ると、そこは七色に輝く世界が広がっていた。ビマはその時にこの世のあり様の一端を悟る。【デワ・ルチ】はビマが探している聖水が、天界にあることを教えた。ビマは天界に向かい、神々と戦って聖水を手にいれた。

人間界へ戻ったビマは、師・ドゥルノに聖水を渡すが、ドゥルノはビマが持ってきた聖水が本物であると信じなかった。すると【デワ・ルチ】が現れ「これは本当に聖水である。おまえはビマを騙した罪を償うがいい」といい、ドゥルノを海の真ん中まで飛ばし、溺れ死にさせようとした。それを見たビマは、海まで向かいドゥルノを海から助けた。ドゥルノはビマに助けてもらった恩義を感じ、のちに起こるであろうパンダワ一族とコーラワ一族の大戦争の時に「この借りは必ず返す」と約束したのであった。
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数多いマハーバラタ由来の物語の中でも、かなり幻想的なお話である。この【デワ・ルチ】を10ヶ月の間、ナルタさんから繰り返し教わることによって、物語の内側に流れる無数の教え、まさに【デワ・ルチ】がビマを呼び込んで見せた内的世界を、何重にも体験することになった。私たちは、現代社会の中で自分にとってネガティブなものことに、過剰にならざるを得ない。しかし、この物語の一つの解釈として、ビマが嘘をつかれたことによって真実に行き着いたことは、ネガティブなものを受け取ったとしても、それが結果としてポジティブなものになる可能性があるということ、そのような希望や強さを持つことの大切さ、を表しているようにも思えるのである。

2017年の9月2日は忘れられないに日なった。誤解を恐れずにいうと、スカワティ村という世界一の影絵人形師たちが住む村で、世界一の影絵人形師たちに見守られ、僕は未熟ながらも影絵人形師としての新しい人生を始めることになった。彼らからもらったたくさんの発見に、これからゆっくりと向き合っていこうと思う。

つづく。

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影絵の象徴・カヨナン試作

植物について。 バリの影絵の象徴物 カヨナン 試作品 第一号 カヨナンには、深い哲学が刻まれている。それをもとに再構成を試みる。

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製作過程

インドネシア滞在も残すところ3ヶ月あまり。残された宿題はまだまだ沢山あって片っ端からトライ。似顔絵影絵は一休みして、ここから先はひたすらに植物について考える。

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練習 東南アジア全域で使われている扇型の影絵人形は、植物をモチーフにしている。そのままだと、あまりにも硬派なので、新しい展開を模索。第一段階として。

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龍 植物に続いて。 バリの影絵の象徴である扇型の人形には、龍がかたどられている。

 

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ひざくりげINDA INDO NESIA 9 言葉と呪文

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

──昌福寺の花祭をめざして──

https://www.facebook.com/shoufukuji/

第九話 言葉と呪文

ワヤン(影絵人形芝居)の師匠・ナルタさんに「ダラン(影絵人形遣い)のパフォーマンスで一番大切なのはなんですかね?」と聞くと、迷わず師は「声だね」という。ゆらめく椰子油の炎を前にして、朗々と謳われるダランの声こそが、バリ島のワヤンにとって最重要事項のようだ。その声によって語られる言葉たちは、バリ島の精霊たちと観客を繋ぐ架け橋として信じられている。バリ島の人々はダランの言葉から古きを学び、今いる自分たちの生きかたを再確認する。そのダランがワヤンの中で使う言葉は「バリ語」と「カウィ語」の二種類である。20626603_837131203110900_7798302589217232372_o

インドネシア滞在開始から9ヶ月。ここまでの滞在のほとんどは、この2つの未知の言語との格闘であった。ダランは影絵人形を動かすよりも先に、演目に必要なこの2言語を覚えなければならない。こちらに来たばかりの頃は、影絵のなんたるかを考えようとバリに来たのに、その前に未知の言語を覚えなければならないということに途方に暮れていたが、この2言語を理解しなければ先へは進めないのだ!と腹をくくって取り組むことにした。

インドネシア共和国は数多くの島々が集まって一つの国になっている。西のスマトラ島から、東のパプアまで、東西の距離はアメリカと同じくらい広い。インドネシア共和国内の島々は、もともとそれぞれの島に独立した文化を持っていて、それぞれの島の言語を使っていた。インドネシア共和国独立時に、それらを統合するためにマレー諸国で広く使われていた「ムラユ語」をもとにした新しい言語「インドネシア語」を作り、公用語とした。インドネシア語は、国内に住む別々の島民同士が会話するために使われる言語で、各島々の原住民どうしはその島固有の言語を話している。バリ人どうしはバリ語で話し、ジャワ人どうしであればジャワ語他ジャワ島の地域言語を話す、といった具合である。インドネシア語とバリ語は、文法こそ似ているがほぼ違う言語といってもよく、日本語における標準語と方言の関係性などとは比べられない。インドネシア共和国内の他の地方言語も然りで、言語だけ見てもかなり多様な人種と文化が共存しているのが伺える。

僕は大学の頃にインドネシア語を習っていたので、インドネシア国内での日常生活には困らないのだが、バリ島の現地語であり、バリ島のワヤンの必須言語の一つである「バリ語」となると全くわからない。そしてさらに厄介なのが、次に出てくるもう一つの言語「カウィ語」である。

ワヤンは、インド伝来のマハーバラタ、ラーマヤナという神話をベースに、数多くのキャラクターが登場する。そのほとんどは「カウィ語」を話す。「カウィ語って一体なんですか?」とナルタさんに質問してみると、「古代ジャワ語」だという。この言葉は、バリ人でもほとんど理解できる人がいない。では、カウィ語を理解できないバリの観客たちにどうやってストーリーを伝えるのか?そのためにバリ島のワヤンは特殊な演出を加える。ダランはカウィ語を使うキャラクターの言葉を、道化のキャラクターたちにバリ語に翻訳させて、物語を進めていくのである。観客は道化が語るバリ語を聞いて、初めて内容を理解する。なんでそんな面倒なことをしているんだ!ということは考えても仕方がない。それが伝統芸能というものである。

ここで、インドネシア語とバリ語とカウィ語の違いを例にあげてみる。学校で英語とか勉強するのが苦手だった人(僕もかなり苦手)には、みるだけで嫌になっちゃうような、教科書例文的な感じで申し訳ないのですが。

日本語 : 到着する
インドネシア語 : datang / tiba
バリ語 : rauh(上級語) /tekad(普通語)
カウィ語 : prapta

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日本語 :すでに到着した
インドネシア語 :sudah tiba
バリ語 :sampun rauh (上級語)/ suba tukad (普通語)
カウィ語 :wus prapta

という感じ。どれもこれも全然違う。バリ人がワヤンを習う時は、バリ語に関しては勉強する必要がないので、新たにカウィ語だけ理解できるようになればいい。しかし、外国人の僕はバリ語とカウィ語という未知の言語を2つ同時に覚えて、約1時間の上演に必要なセリフに落とし込まなくてはならない。

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とにかくこれはいくら時間があっても足りないと思い、今年の初めからワヤンの台本製作に取り掛かる。まず、ナルタさんから演目の「オリジナル台本」をもらって、それを清書するところから始める。本来ワヤンのセリフは即興の要素が強く、台本はあってないようなものなのだが、僕が外国人なので、ナルタさんはわざわざ普段は使わない台本を用意してくれた。しかし、この「オリジナル台本」が筆記体の走り書きで解読困難。この「オリジナル台本」の数行を四苦八苦しながらパソコンで清書。次の練習に持って行って、誤字脱字を修正する。同時にバリ語、カウィ語それぞれの意味と、台詞の内容をインドネシア語に訳してもらう。わからなかった言葉は、練習後にカウィ語、バリ語、インドネシア語のそれぞれの辞書で調べる。これの繰り返しで半年ほどかけて自分専用の台本を作った。先日、この連載を企画してくださった昌福寺のご住職がバリに来た時に、この作業の話をしていて「これは昔お坊さんが中国に渡って仏教経典を訳したりする作業とおんなじようなものかもしれませんね」みたいな話になった。

4月中頃、ようやく最後まで出来上がった「自分専用台本」で台詞の暗記を始めた。運転中や料理中、時間のある時にひたすら復唱する。バリ語、カウィ語両方とも未知の言語なので、実際のところ2言語使っているという感覚はまだなく、とにかくひたすらに暗記。カウィ語は、キャラクターによってメロディ(節)がついているので、それも合わせて覚える。ようやく覚えて、人形と合わせて動かせるようになってくると、ナルタさんがセリフを足してくるのでまた覚え直す。延々とそれを繰り返す。

下手くそなりに台詞も覚え、音楽に合わせて人形も動かせるようになって来て、バリの知り合いから「そしたら滞在中にワヤンのお試し上演してみたら?」と言われた。まさかそこまでいけるとは思ってもいなかったので、試しにナルタさんに相談してみると、真剣な顔になって1冊の本を出して来た。「もしワヤンを上演するなら、上演に必要な呪文を覚えなきゃね」と言って渡されたその本には、膨大な呪文が書かれていた。。。僕はこれから更にこの呪文を覚えることになる。

つづく。

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ひざくりげINDA INDO NESIA 8  アイ ラブ バリ を着る男

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

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第八話 I BALI を着る男

影絵の伴奏楽器「グンデル」の師匠・サルゴさん(自称65歳)には、弟(自称62歳)がいる。練習していると、自慢の白いベスパに乗ってやって来て練習を眺め、たまにちょっかいを出して帰っていく。そんな師匠の弟の本職はお坊さん。サルゴさんの家では「パマンク(お坊さん)」と呼ばれている。バリ島では家単位、村単位、島単位のありとあらゆるお祭りがほぼ休みなく行われていて、彼も儀式の時は上下白の装束で登場し、粛々とお経を唱える。「ひざくりげ」バビグリンの回で、師匠の楽器の儀式を行ったのも彼である。

 

ヒョロヒョロと痩せたサルゴさんに比べ、パマンクさんは恰幅が良く、長髪を後ろに束ねている。若い頃は、お祭りの余興で開かれる舞踊劇で「ビマ」や「ガトカチャ」と呼ばれる、バリで人気の荒型の踊りをよく踊っていたそうだ。60歳を超えた現在も現役で、観光でも知られる獅子舞「バロン」や魔女「ランダ」の踊りも踊るそうだ。特に儀礼で踊られるランダの踊りは、みんな踊るのを恐がって踊れる人が少ないので、お坊さんでもある彼が良く指名される。

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先日も、サルゴさんの家で練習していると、パマンクさんは「I BALI」とデカデカと胸に書かれたタンクトップと、それとお揃いの青いジャージを履いてやって来た。冗談かと思う格好をしていたので、思わず写真を撮ってしまった。その時は、日本から来た整体師の友達が、練習後のサルゴさんに施術をすることになっていて、パマンクさんはそれを見物に来たのだった。(あわよくば、自分もマッサージしてもらおうとしていて、その願いは後ほど叶うことになる。)

サルゴさんの施術を傍で見ている間、パマンクさんはいつものように冗談話をしていたが、「日本はお金持ちの国だと思うんだけど、バリは貧しかったよ」という前置きをして、いつの間にか彼の子供の頃の話をはじめた。

「土でできた床は暖かかった」

今から50年以上前のバリの話。昔のバリの家は、地面から50cmほど土をもり、それを平らに均しものに屋根をつけただけのものだったらしい。今ではバリのどの家でも、その床はセラミックなどで作られていている。昔に比べて清潔に見えるし、雨の時に泥だらけにならなくて済むが、あまり長い時間座っていると体がかなり冷えてくる。それに比べて土の床は、土そのものの暖かさが伝わって暖かく、気持ちが良かったそうだ。

「最近の人は、サンダル履いちゃうから、足の裏がツルツルで良く滑る」

その頃の人たちは、裸足で生活していた。だから、足の裏の皮がとても厚く、ガサガサしていたようだ。足の裏の話をされて、東バリにあるバリ先住民の村「トゥガナン」に行った時のことを思い出した。トゥガナンは、観光地としても開かれていて、古いバリの住居や、道がそのまま残されている。山の中腹にある村は、大きさが不揃いな石畳の坂道で構成されている。僕がトゥガナンに行った日は雨が降っていたので、石畳をサンダルで歩くとつるつる滑って大変だった。これは昔の人も大変だったろうな、とその時思ったのだが、もしこれが裸足だったらそんなに滑らないんではないか、とパマンクさんの話を聞いて思いなおした。

「昔のご飯は、味気なかったけど、みんな健康だったよ。最近使われてる調味料は、口で美味しいって感じるけど、お腹が美味しがっているかわからないよね。だって、わしらはそれを食べてたくさん病気してる。」

サルゴさんとパマンクさんは一緒に小学校に行っていた。その頃、朝食はなかった。小学校が終わって昼過ぎに帰って来ても、まだご飯ができないこともあった。ご飯といっても、今のような白米ではなく、米と芋、もしくはトウモロコシを混ぜ合わせて炊いたもので、お米の分量はほんの少しだった。7ヶ月に1度訪れる島を挙げてのお祭り「ガルンガン」の時にだけ、白米のご飯を食べた。もちろん、肉(豚肉)も、そのお祭りの時にだけ食べられるご馳走だった。普段は、唐辛子とニンニク、塩を少々の油で炒めたものをおかずにしてご飯を食べた。基本的には夕ご飯はなく、昼作ったものが余っていたら、夜その残りを食べる程度だった。

「別に昔が良かったとは言わないよ。だって今の方が断然豊かだもの」

誰もお金を必要としていなかった。小学校の教科書や筆記用具は、学校が支給してくれたそうだ。現在、パマンクさんには、8歳になる孫がいる。小学校に入学する時に、教科書、筆記用具を買うのはもちろん、建物新設のための補助金を払わなくてはいけない。さらに中学校になると、通学のためのバイクや、今や全世界で必需品になろうとしているスマホを買ってあげたりと、何かにつけてお金がかかってしまうそうだ。「おじいちゃんの子供の時は、バイクなんて村に2、3台しかなかったんだぞぉ〜」と自分の子供時代の話を孫に向かってすると、「おじいちゃんの時代と一緒にしないでよ〜」と言われてしまう。日本でもよく聞く話である。

バリ島が世界中から地上の楽園といわれて久しい。僕を含めた多くの外国人が、観光で訪れるようになった。現代社会の枠組みの中に入れられたバリの人々は、多くの変化を要求されている。それは昔の日本の姿と重なる部分もある。数万円で世界中を旅できる今、楽園たるべきその本来の姿をそのままに保持していくのは難しいだろう。

それではどのようにして生きていこうか?「別に昔が良かったとは言わないよ。」というパマンクさんの言葉に考えさせられる。

50年前、サルゴさんとパマンクさんは、小学校の帰り道に道端に生えているバナナや、人の家のパパイヤとかマンゴーとか、目に入った果物を勝手に取って食べていた。たぶんこの二人だけじゃなくて、当時の島の子供たちは、お腹を空かした昼下がりに皆そうしていたのだろう。そういう豊かさをバリ島はもっていた。

「昔は人の家のパパイヤを勝手に取っても、誰も怒ったりしなかったよ。みんながそれでいいと思っていた。お腹は空いていたけど、みんな健康だったし、それで幸せだった。」

笑いながら話すパマンクさんのタンプトップには、冗談みたいなI BALIが光っている。

つづく。

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ひざくりげ INDA INDO NESIA 7  ジャワ島布と鉄道の旅と娘の友達

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同時連載

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第七話 ジャワ島布と鉄道の旅

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何年も前から、母が中部ジャワに残る世界最大級の仏教遺跡「ボロブドゥール寺院」に行きたいと言っていたので、家族旅行も兼ねて僕と妻と娘(8ヶ月)と母の四人でジョグジャカルタに行く。出不精の父は日本でお留守番。壮大な仏教遺跡で日の出を拝み、超高級ホテル「アマンジワ」のランチを食べたりして数日過ごした後、妻と娘と母はバリ島に戻り、僕は一人ジャワ島バティック産地をめぐる鉄道の旅に出た。

インドネシアの名産品バティックのほとんどはジャワ島で作られている。日本では「ろうけつ染め」と言われているバティックは、主に腰巻に使われる布にロウで図柄を描き、そのあと染料に浸して色をつける。ロウをつけたところには色が入らないで白く残って模様になる。絵付けの方法は手描きか、銅版スタンプの2種類。手描きバティックは伝統的に女性の仕事であり、今でも工場やお店の軒下で女性たちが絵付けをしている風景が見られる。手描きバティックの最高級品は、絵付けに半年~1年かかるものもあり、そういったバティックは何百万円にもなるという。
3_車窓
昨年末にバティックの中心地である中部ジャワの「ジョグジャカルタ」と「ソロ」の2都市には行ったので、今回は「辺境のバティック」を探しに行くことにした。バティックの産地は、東西に広がるジャワ島の北岸に集中している。もともと、大陸との貿易が盛んだった港街に、バティックを買い求める商人が多く集まったことが始まりだと思われる。ジャワ島には、この北岸の港街をつなぐ鉄道が走っていて、今回はその鉄道に乗ってバティック産地を巡った。僕は決して「鉄ちゃん」ではない、と自分では思っているが、鉄道が張り巡らされた日本から、ほぼ鉄道のないインドネシアに来ると、なぜだか無性に列車に乗りたくなった。

車窓からは、延々と続く田園と椰子の森、広大な緑。

ジョグジャカルタから北西に4時間。西ジャワの街「チルボン」がこの旅最初の目的地。ジャワ島は大きく分けて西ジャワ、中部ジャワ、東ジャワの3つの文化圏がある。チルボンには王宮があり、現在でも王族が住んでいる。4_チルボンのバティックコンパニ
「バティック・コンパニ(植民地時代のバティック)」といわれるこの街発祥のバティックは、主にオランダ占領時代に確立されたデザイン。兵隊や、船、働く人たちをモチーフにした図柄が多い。上品で細密的な中部ジャワの王宮バティックに比べて、素朴でどこか間の抜けた感じがとてもいい。
チルボンのバティック街には、100件以上のバティック屋が立ち並び、お店ごとに大量のバティックが山積みされて売られている。お気に入りの一品を探すには相当の覚悟がいる。まして、「バティック・コンパニ」は少し時代遅れのデザインなので、置いている店も少ない。置いてあったとしても、年代物の高価なものが多くて手が出せない。炎天下の中、2日間探し続けて、気に入ったバティックを数枚見つけた。

チルボンから東へ2時間、第二の街は中部ジャワ北岸に位置する「ペカロンガン」。ここでは女性に人気の花柄バティックが量産されている。小さいが趣のある街並みが美しい。5_ペカロンガン_花柄バティック    6_ペカロンガンのバティックドンゲン
ペカロンガンのバティックミュージアムでは、ガイドさんがとてもよく解説してくれたので、この街のバティックの歴史とメンタリティを知ることができた。ペカロンガンのバティック職人は古くから中国、ヨーロッパ、インド、日本の影響を受け、高い技術と海外のデザインが融合した新しいバティックを作り続けてきた。一つ例を挙げると、「バティック・ドンゲン」と言われる、ヨーロッパの民話(シンデレラや白雪姫など)をモチーフにしたバティックがある。その昔ジャワ人と結婚してペカロンガンに移住したヨーロッパの女性が、生計を立てるために、祖国のモチーフを使ってバティック作り始めたことがきっかけになっている。新しいものを取り入れることに、抵抗のない気風を感じる。ジョグジャカルタやソロのように、描かれた模様に哲学的意味を求めるというよりも、美的センスや、良い意味で「売れるバティック」を作ることが、この街では大切とされている。7_マドゥラ島に渡る船

この旅の最終目的地「マドゥラ島」には、ペカロンガンから鉄道で東に5時間、東ジャワの中心地でインドネシア第二の都市・スラバヤから船か橋を渡っていく。日本と比べてのんびりしているインドネシアの鉄道。ペカロンガン出発が2時間も遅れ、駅で待ちぼうけの時間を合わせると7時間かかってスラバヤに到着。この日は街のホテルで1泊して、次の日の早朝マドゥラ島に出発。一見すると瀬戸大橋のようなスラマドゥ大橋を横目にフェリーで島へ渡る。バティックの中心地・パムカサンまではさらに車で4時間。幹線道路は一つしかなく、時々起こる渋滞にうんざりしながらパムカサンに着く。
ネットなどで調べてもパムカサンの情報がほぼなかったので、街のバティック市場に行ってみる。田舎町なので見た目は閑散としていたが、置いてあるバティックの量がこれまた大量で、一通り眺めるだけでも1時間以上かかった。マドゥラバテックは、荒々しく抽象的なデザインで有名。手頃な値段のものが多かったが、これはいい!と思ったバティックは、やはり年代物の超高級バティックでびっくりするような値段だった。8_マドゥラ島のバティック

近年、バティック柄を模したプリント生地が多くなり、手描きバティック職人が減ってきていると聞く。一見普通の布に見えても、広げてみると、ブワッと凄まじいエネルギーを放つのが手描きバティックの魅力である。そんな歴史と人間をまるごと染め込んだような布たちが、年々少なくなってきているのを残念に思う。
布との出会いは、まさに一期一会である。

バティックをめぐる1週間の鉄道旅を終え、バリに戻ると嬉しい再会があった。
僕は2011年、あの大混乱の年に、当時ガムランを教えていた地元の小学生たちと、夢の島の大きなフィールドで飴屋法水さんの「じ め ん」に参加した。その当時、参加していた子供から「大きくなったら一人でバリに遊びに行きたいんだけど、いくらあったらいけるかな?」と聞かれた。なかなか面白い子だな、と思っていたら、先日その子が本当にバリに遊びに来た。しかも初海外。あれから6年、大人にとってはあっという間である。僕の娘は年の近い~と言っても18歳離れている~友達ができたと思って大喜び。僕は「イケイケ」という言葉が通じず、「たぶんそれは『パリピ』っていうんだと思います」と言われて少々凹んだ。
そういえば、僕が初めてバリに来たのも、19歳の時だった。
つづく。

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ひざくりげINDA INDO NESIA 6 枝葉の物語

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

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第六話 枝葉の物語

ワヤン(影絵)の師匠・ナルタさんに習い始めて半年が過ぎようとしている。1時間半のレッスンを週2日というスケジュール。一見少ないようでいて、その情報量は膨大である。物語の筋を理解し、未知の言語「バリ語」と「カウィ語(バリの古語)」によるセリフの解読と暗記、数々の唄とキャラクターによる声色、人形の操作、右足に挟まれたチュパラといわれるバチのさばきetcなどの習得。半年の間、たった一つの物語を題材にレッスンを重ねてきたが、今までやってきたことを理解するのに何年かかるのだろう?と途方に暮れてしまう。18301074_786847851472569_7163908434025755433_n

レッスンだけではサンプルが少ないので、ナルタさんに聞いて、できるだけ多くのワヤン上演も見に行っている。しかし、肝心の師匠、ナルタさんのワヤン上演は、高齢のため現在ではほとんど見ることができない。この滞在中のどこかで、1度でいいから見たい、と思っていたら、ナルタさんから、儀礼のために上演される昼間のワヤン「ワヤン・ルマ(WAYANG LEMAH)」の奉納があると教えてもらった。

日本では、ワヤン=影絵と訳されてしまうが、バリ島の人たちは、単純にワヤン=影絵とは考えていないようで、「ワヤン・ルマ」は昼間上演され、スクリーンもなければ影絵も登場しない人形劇である。

「ワヤン・ルマ」はバリ島の儀礼には欠かせない。

バリ島には、神様の儀礼、死者の儀礼、お坊さんの儀礼、人間の儀礼(通過儀礼など)、魔物の儀礼(生贄の儀礼)という5つの種類の儀礼がある。奉納上演される「ワヤン・ルマ」の演目は、儀礼の種類によって変わり、それぞれの物語は儀礼の内容とリンクしている。例えば、先日ナルタさんが奉納上演した魔物の儀礼ブタ・ヤドニャ(BUTA YADNYA)のための演目にデティオ・バコ(DETIO BAKA)というものがある。18342553_786847581472596_7982303131966761279_n

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エカチャクラ国という国に、人を生贄として食べる魔物デティオ・バコがいた。エカチャクラ国の高僧ビクソ・カルマは、その年の生贄を決めなければならず、途方に暮れていた。そこへ旅の途中に通りかかったパンダワ5兄弟とその母クンティ(「マハーバラタ」の主人公一家)は、その魔物の退治を引き受ける。パンダワの次男で怪力のビマは、生贄の中に紛れてデティオ・バコの住む川のほとりへ行く。川のほとりについたビマは、デティオ・バコが現れる前に、用意されていた生贄を食べてしまう。それを見て襲いかかるデティオ・バコは大木でビマを殴るが、ビマはかまわず生贄を食べ続ける。怒ったデティオ・バコはビマに襲いかかるが、逆に退治されてしまう。その後エカチャクラ国は平和になりパンダワ5兄弟とその母は、また次の国へと旅を続けた。18275232_786848084805879_7859999862264454970_n

ワヤンが上演されている横では、生贄の供物が捧げられたり、お坊さんがお経を読んでいたり、爆音でガムランが演奏されたりしている。周りの音にかき消されて、ワヤンの上演は音も聞こえず、ほぼ誰も見ていない。長い問答のシーンでは、伴奏楽器のメンバーもそっぽを向いている。誰も見ていないところで、ナルタさんが一人でワヤンを上演している。捧げものとしての上演。外国人である僕にはその心のうちはわからない。観客もいない場所でただ一人、神様に向けてワヤンを上演するというのはどういう気持ちなのだろうか。

この上演の数日後、ナルタさんの後輩であるダラン(影絵師)のジュアンダさんが、夜のワヤン「ワヤン・マラム(WAYANG MALAM)」を上演するとの情報を聞いて見に行く。

「ワヤン・マラム」は前述の「ワヤン・ルマ」と違い、スクリーンと松明を使って「影絵」を上演する。お祭りの余興として上演され、観客もいる。ジュアンダさんはバリ芸術高校ワヤン科(バリにはそういう学科がある!)の学科長で、現在バリで活躍する実力派ダランの一人である。とにかく声が素晴らしい。18275139_786848388139182_750807153176853357_n

20時から始まるといわれて会場に行くと、まだ何の準備もされていないステージ横で、出演者たちは談笑している。時間に正確な日本人が悩まされる「バリ時間」というやつである。結局21時に始まったワヤンは,23時過ぎに終演。バリ語とカウィ語を勉強しているとはいえ、まだまだ初心者。ダランが語る台詞の10%も理解できなかった。

後日、ナルタさんに、ジュアンダさんがやっていた演目が何かを聞くと
「あれはカウィ・ダラン(影絵師による創作)だよ」
と教えられた。

ダランは、儀式などでも用いられる主要な物語を最低10個~20個ほど知っていて、そこから派生する創作、外伝を無限に作り出す。夜のワヤンでいつも同じ話ばかりやっているとお客さんが飽きて帰ってしまうからだ。ナルタさんはその昔、150余りの外伝を作り、ある村のお寺で毎年行われるお祭りでは、今まで一度も同じ物語を上演していないそうだ。

日本では、昔話を創作で語るとなると、ものすごく現代的な雰囲気がしてくるが、バリのワヤンでは、元ネタの哲学を継承してどれだけ豊かなバリエーション(外伝)を作るかが、ダランの重要な能力であるようだ。

ナルタさんは創作ワヤンのことを
「枝葉の物語(CERITRA CARANGAN)」
とも言っていた。

大きく根を張った幹から、無限に伸びる枝葉の物語。

ダランが蓄積してきた膨大な知識とエネルギーは根となり立ち上がる巨大な樹からは瑞々しく光る枝葉が無限に広がっていくそんなイメージが湧いてくる言葉だった。
つづく。   18342032_786847468139274_4038445419699643862_n

ひざくりげ INDA INDO NESIA 5 ニュピとジャカルタ

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ひざくりげのパラレルストーリー

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』
──昌福寺の花祭をめざして──
第五話 ニュピとジャカルタ

2017年(サカ暦(caka)1939年)3/28はニュピという、バリの特別な日。 静寂の日ともいわれるこの日は、スピ(sepi)=空いている、というのが語源らしく、とにかく 何もしないで家にいることが薦められ、基本的に外出禁止。火や電気を使ってはいけない。村や 地域によって、ルールの厳しさに多少の差があるようだが、概ねこのようにいわれている。昔は 36時間(ニュピ前日の夜18時~ニュピの次の日の朝6時まで)火を使ってはいけなかったそうだ。17861914_770960096394678_8087150079062035545_n

僕はニュピにバリにいるのが初めて。
前回インドネシアに長期滞在していた2004年、ニュピの日に僕はバリにおらず、その日は東ジャ ワにあるヒンドゥー教の聖地・ブロモ山(gunung Bromo)にいっていた。すると帰りにひどい高 熱が出る。バリに戻って数日うなされていると、いつの間にか身体中に発疹が。。。当時まだ日 本ではあまり知られていなかったデング熱も、高熱と発疹がでるらしいので、心配になって病院 に行くと、発疹チフスにかかっていた。日本でチフスって言ったら、まぁまぁ大変な感じに受け 取られるが、バリの人たちにとってはたいした病気ではないらしく 「チフスだったら、おかゆでも食べてれば治りますので。。。」 なんて言われて、抗生物質渡されて帰された。

今ではいい思い出だが、その時は死ぬかと思った。17799469_770959899728031_7837150340009743082_n
もしかして、外出禁止の日なのに、外(しかも島の外)に行ったからバチが当たった?みたいなことを考えて、もし次自分がインドネシアにいる時にニュピにあたったら、必ずバリにいよう、と思っていた。
ニュピの1週間ほど前に、村の自警団が家に来て「ニュピの心得」なるものを置いていく。
○火(電気も含む)は、怒りの心を表すため、使用を禁じます。
○精神を綺麗にするため、仕事や物理的活動を禁じます。
○外出を禁じ、自分の内面と向き合いましょう。
○エンターテインメントやレクリエーションなどはせず、高い精神を養うことを目指して過ごしましょう。
むむむ。怠惰な日本人にはものすごく厳しいきまり。。。とはいえ、これだけ厳しいことを書いてあっても、みんながみんなこれを守っているわけでもないようで、外出はしないにしても、夜の食事時はちょっとライトをつけていたり(実際ご近所に何件かあった)、家の中でカードゲームやったりしている。
ニュピの朝、起きぬけにまず感じるのは、その音。鳥や犬の鳴き声以外、まったく何も聞こえない。人の生活を感じる音~料理や庭履きの音、バイクや車の排気音、人が行き交う気配の一切合切がない。
いつもの町並み。音だけが全く失われた世界。
我が家はというと、上記に出ていた決まりの「外出」以外を全てぶっちぎって、この日のために 日本から取り寄せていた海外ドラマのDVDを、朝から晩まで見てやるぞ!と思っていた。しか し、周りの家が想像以上に静かだったので、びびって無音、字幕でこそこそ見ることにした。

このニュピという日、1日体験して思うのは、日本でもこういう日があったらいいのにな、とい うこと。日頃生活している場所で、普段しているような生活音や、人が歩いている気配のない道 を見るのは、特別な感慨がある。実際、火も電気もつかわないので(携帯やっている人はかなり いたと思うけど)、周りにウンウンと動くエネルギーが全くない。まさに静寂を味わえるのは貴 重である。さらに夜、街灯も、家々の明かりも全くついていないと、あんなにも星が綺麗だとは! そんな体験が、例えば東京のど真ん中で味わえたとしたら、それはそれは素晴らしいだろうと思っ た。17862620_770960309727990_632500714408170782_n

そんな感慨にふけっている暇もなく、ニュピ明けの朝、僕はインドネシアの首都ジャカルタにい た。インドネシアの大手新聞社「KOMPAS」が運営するギャラリーで影絵と音楽のパフォーマン スをするためである。昨年末に参加したジョグジャカルタの人形劇フェスティバルを見に来てい たkompasのプロデューサーが、僕のパフォーマンスを気に入ってくれて、呼ばれることになっ た。心を空っぽに!というニュピのありがたい教えが吹っ飛ぶほどの大都会・ジャカルタ。経済 成長著しいイケイケのインドネシアの首都である。大渋滞と排ガスで汚れた空気、しかしそれを ものともしない人々の陽気なエネルギーを感じる。会場のkompasも、昨年新しく高層ビルを建 てたらしく、久しぶりの大都会に興奮する。17834241_770960686394619_1963534726465714876_o

プロデューサーから、ワークショップとパフォーマンスを依頼されていた。ワークショップは平 日の午後にもかかわらず、かなりの人が集まる。体験コーナーをたくさんやろうかな、と思っ て、いろいろネタを考えてきたのに、影絵体験もそこそこに質問責めにあう。さすが、影絵の伝 統を持つ人たち、飛んでくる質問のレベルがかなり高くて、答えるのが難しかった。日本人にとっ て目新しい影絵も、彼らにとっては日常の一部である。

夜のパフォーマンスも大入り。在ジャカルタの友人や、日本の方達も来てくれた。公演は1時間程度で全編インドネシア語で行った。影絵と音楽をやりながら外国語でコメディーをやるのはとても難しいが、インドネシアのお客さんたちはみんな暖かくて、大いに盛り上がる。彼らは、何かを見に来る、というよりも、何かを楽しみにくる、というのが染み付いてる。根っからのお祭り民族なんだろうな。17523319_770960459727975_193371556263909574_n

当日いきなり聞いたのが、インドネシアのテレビ局が取材に来ていて、僕のドキュメンタリーの 放送がすでに決定していたこと。しかも1時間半枠。とてもありがたいことだが、なんの事前相談 もなく物事が進んで行っちゃうっていうのが、インドネシアンスタイルである。

つづく。

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