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ひざくりげ INDA INDO NESIA 10 デワ・ルチ

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

──昌福寺の花祭をめざして──

https://www.facebook.com/shoufukuji/

第十話 デワ・ルチ

210日で巡るバリの暦の中に、鉄を祀る日【トゥンパック・ランダップ】というのがある。元々は剣(クリス)を祀る日だったが、転じて楽器や車、最近はパソコンなんかも祀られる。僕がバリ滞在を始めて数ヶ月たった2月の【トゥンパック・ランダップ】には、師匠の楽器の奉納儀礼に参加した(「バビグリン」の回参照)。そして、9月に再び巡ってきたこの祭日に、僕は滞在10ヶ月をかけて修行してきたワヤン・クリット(影絵人形芝居)のお試し上演をすることになった。

ワヤンを習っているスカワティ村では、この【トゥンパック・ランダップ】に合わせて、影絵人形遣い(ダラン)のお寺でお祭りを行われる。ワヤンの師匠・ナルタさんは、3日間あるお祭りの初日に、僕のお試し上演の時間を作ってくれた。

バリ島でワヤンを上演する場合、人形遣いは必ず通過儀礼を行わなくてはならない。ナルタさん曰く「人形使いが通過儀礼をしなかったり、上演に必要な呪文を知らなかったりすることは、目を瞑って道路の真ん中を歩くようなものだ」とのこと。これはバリ島で昔から信じられていることで、ワヤンを上演することは、目に見えない世界にアプローチすることであり、そういう意味で危険がいっぱいである。そういった危険から身を守るための通過儀礼である。

8月の満月の早朝、スカワティ村の高僧の家で通過儀礼を行う。バリ島の儀礼は謎の所作がたくさんである。交差させた手の甲に中国銭を乗せてそれを払いおとす、木で作ったブラシのようなもので爪を磨く、卵で手のひらに梵字を書く、赤と白の綿糸を耳にかけたり手首に巻いたりetc。通過儀礼に使われる聖水は、黄色い椰子のココナッツジュース。一連の儀礼を経て、晴れて僕は正式なバリ島の影絵人形使いになった。

1ダランの通過儀礼

インドネシア滞在を決めた当初、まさか1年足らずでワヤンを上演できるとは思ってもみなかった。いざ本番を迎えるその日の朝「そもそも、どうして自分はバリ島のワヤンなんかやってるんだ?」という、今更ながら初歩的な疑問が浮かんできた。バリ島において、ワヤンを上演するということは、バリ人の中でさえものすごくハードルの高いものである。まして、外国人がそれを上演するということは、奇跡に近い。しかし、その貴重さは日本の人にはピンとこないものであり、僕の思い入れや努力というものは、そのままストレートに本国には還元されないもの、残酷な言い方をすれば無意味なものなのである。そのようなものにどうして自分がここまで踏み込むことになったのか?それは何処かのタイミングで自分自身が選択した結果の集積であることは間違いのだけど、本番前の緊張も相まって、それは人知を超えたものの仕業のような、とても不思議な気持ちになった。

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僕のそのような気持ちを救ってくれたもの、それは今回上演することになった演目【デワ・ルチ】である。【デワ・ルチ】は、インド伝来の物語【マハーバラタ】を起源とする物語で、ジャワ島、バリ島で上演されるワヤンの有名な演目である。バリ島空港からクタに行く途中のロータリーの石像のモチーフにもなっている。僕は、今回の滞在までこの物語を知らなかった。初めてナルタさんのところに習いにいった時に、ナルタさんが用意してくれた物語がこの【デワ・ルチ】だった。この物語の持つ不思議な説得力に助けられ、上演の日を迎えられた。

ここで【デワ・ルチ】のあらすじを紹介する。前提条件として、マハーバラタの物語は、パンダワという正義の5王子と、コーラワという悪の100王子達による戦記物である、というのを念頭に置いていただきたい。
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【デワ・ルチ】

パンダワ兄弟の次男に怪力無双を誇るビマがいた。ビマの活躍に手を焼いていた敵軍・コーラワ兄弟の長男は、ビマを殺すために彼らの共通の師匠であるドゥルノに嘘をつかせ、あるはずもない聖水をビマに探しに行かせるのであった。

ビマははじめに洞窟へ向かった。そこには2匹の凶暴な龍が住んでいた。ビマはこの2匹の龍を退治するが、聖水は見つからなかった。次にビマはジャングルへ向かうが、ここでも怪物が現れてビマに襲いかかった。ビマはこれも退治するが、聖水はやはり見つからなかった。三度目にビマは海の真ん中へ行けと言われた。ビマの母や兄弟たちは、ドゥルノの度重なる嘘に気づいてビマを止めるが、ビマは「師の教えは死しても守る!」とだけ言ってまた聖水探しに海へ向かった。

大海原に飛び込んだビマは、波にさらわれその命を落としてしまう。するとそこへ小さな小さな神が天空からやってきた。【デワ・ルチ】と名乗るその神はビマを生き返らせて、こう言った。「私の体の中に入りなさい」ビマは半信半疑で【デワ・ルチ】の中に入ると、そこは七色に輝く世界が広がっていた。ビマはその時にこの世のあり様の一端を悟る。【デワ・ルチ】はビマが探している聖水が、天界にあることを教えた。ビマは天界に向かい、神々と戦って聖水を手にいれた。

人間界へ戻ったビマは、師・ドゥルノに聖水を渡すが、ドゥルノはビマが持ってきた聖水が本物であると信じなかった。すると【デワ・ルチ】が現れ「これは本当に聖水である。おまえはビマを騙した罪を償うがいい」といい、ドゥルノを海の真ん中まで飛ばし、溺れ死にさせようとした。それを見たビマは、海まで向かいドゥルノを海から助けた。ドゥルノはビマに助けてもらった恩義を感じ、のちに起こるであろうパンダワ一族とコーラワ一族の大戦争の時に「この借りは必ず返す」と約束したのであった。
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数多いマハーバラタ由来の物語の中でも、かなり幻想的なお話である。この【デワ・ルチ】を10ヶ月の間、ナルタさんから繰り返し教わることによって、物語の内側に流れる無数の教え、まさに【デワ・ルチ】がビマを呼び込んで見せた内的世界を、何重にも体験することになった。私たちは、現代社会の中で自分にとってネガティブなものことに、過剰にならざるを得ない。しかし、この物語の一つの解釈として、ビマが嘘をつかれたことによって真実に行き着いたことは、ネガティブなものを受け取ったとしても、それが結果としてポジティブなものになる可能性があるということ、そのような希望や強さを持つことの大切さ、を表しているようにも思えるのである。

2017年の9月2日は忘れられないに日なった。誤解を恐れずにいうと、スカワティ村という世界一の影絵人形師たちが住む村で、世界一の影絵人形師たちに見守られ、僕は未熟ながらも影絵人形師としての新しい人生を始めることになった。彼らからもらったたくさんの発見に、これからゆっくりと向き合っていこうと思う。

つづく。

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影絵の象徴・カヨナン試作

植物について。 バリの影絵の象徴物 カヨナン 試作品 第一号 カヨナンには、深い哲学が刻まれている。それをもとに再構成を試みる。

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製作過程

インドネシア滞在も残すところ3ヶ月あまり。残された宿題はまだまだ沢山あって片っ端からトライ。似顔絵影絵は一休みして、ここから先はひたすらに植物について考える。

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練習 東南アジア全域で使われている扇型の影絵人形は、植物をモチーフにしている。そのままだと、あまりにも硬派なので、新しい展開を模索。第一段階として。

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龍 植物に続いて。 バリの影絵の象徴である扇型の人形には、龍がかたどられている。

 

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ひざくりげINDA INDO NESIA 9 言葉と呪文

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

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第九話 言葉と呪文

ワヤン(影絵人形芝居)の師匠・ナルタさんに「ダラン(影絵人形遣い)のパフォーマンスで一番大切なのはなんですかね?」と聞くと、迷わず師は「声だね」という。ゆらめく椰子油の炎を前にして、朗々と謳われるダランの声こそが、バリ島のワヤンにとって最重要事項のようだ。その声によって語られる言葉たちは、バリ島の精霊たちと観客を繋ぐ架け橋として信じられている。バリ島の人々はダランの言葉から古きを学び、今いる自分たちの生きかたを再確認する。そのダランがワヤンの中で使う言葉は「バリ語」と「カウィ語」の二種類である。20626603_837131203110900_7798302589217232372_o

インドネシア滞在開始から9ヶ月。ここまでの滞在のほとんどは、この2つの未知の言語との格闘であった。ダランは影絵人形を動かすよりも先に、演目に必要なこの2言語を覚えなければならない。こちらに来たばかりの頃は、影絵のなんたるかを考えようとバリに来たのに、その前に未知の言語を覚えなければならないということに途方に暮れていたが、この2言語を理解しなければ先へは進めないのだ!と腹をくくって取り組むことにした。

インドネシア共和国は数多くの島々が集まって一つの国になっている。西のスマトラ島から、東のパプアまで、東西の距離はアメリカと同じくらい広い。インドネシア共和国内の島々は、もともとそれぞれの島に独立した文化を持っていて、それぞれの島の言語を使っていた。インドネシア共和国独立時に、それらを統合するためにマレー諸国で広く使われていた「ムラユ語」をもとにした新しい言語「インドネシア語」を作り、公用語とした。インドネシア語は、国内に住む別々の島民同士が会話するために使われる言語で、各島々の原住民どうしはその島固有の言語を話している。バリ人どうしはバリ語で話し、ジャワ人どうしであればジャワ語他ジャワ島の地域言語を話す、といった具合である。インドネシア語とバリ語は、文法こそ似ているがほぼ違う言語といってもよく、日本語における標準語と方言の関係性などとは比べられない。インドネシア共和国内の他の地方言語も然りで、言語だけ見てもかなり多様な人種と文化が共存しているのが伺える。

僕は大学の頃にインドネシア語を習っていたので、インドネシア国内での日常生活には困らないのだが、バリ島の現地語であり、バリ島のワヤンの必須言語の一つである「バリ語」となると全くわからない。そしてさらに厄介なのが、次に出てくるもう一つの言語「カウィ語」である。

ワヤンは、インド伝来のマハーバラタ、ラーマヤナという神話をベースに、数多くのキャラクターが登場する。そのほとんどは「カウィ語」を話す。「カウィ語って一体なんですか?」とナルタさんに質問してみると、「古代ジャワ語」だという。この言葉は、バリ人でもほとんど理解できる人がいない。では、カウィ語を理解できないバリの観客たちにどうやってストーリーを伝えるのか?そのためにバリ島のワヤンは特殊な演出を加える。ダランはカウィ語を使うキャラクターの言葉を、道化のキャラクターたちにバリ語に翻訳させて、物語を進めていくのである。観客は道化が語るバリ語を聞いて、初めて内容を理解する。なんでそんな面倒なことをしているんだ!ということは考えても仕方がない。それが伝統芸能というものである。

ここで、インドネシア語とバリ語とカウィ語の違いを例にあげてみる。学校で英語とか勉強するのが苦手だった人(僕もかなり苦手)には、みるだけで嫌になっちゃうような、教科書例文的な感じで申し訳ないのですが。

日本語 : 到着する
インドネシア語 : datang / tiba
バリ語 : rauh(上級語) /tekad(普通語)
カウィ語 : prapta

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日本語 :すでに到着した
インドネシア語 :sudah tiba
バリ語 :sampun rauh (上級語)/ suba tukad (普通語)
カウィ語 :wus prapta

という感じ。どれもこれも全然違う。バリ人がワヤンを習う時は、バリ語に関しては勉強する必要がないので、新たにカウィ語だけ理解できるようになればいい。しかし、外国人の僕はバリ語とカウィ語という未知の言語を2つ同時に覚えて、約1時間の上演に必要なセリフに落とし込まなくてはならない。

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とにかくこれはいくら時間があっても足りないと思い、今年の初めからワヤンの台本製作に取り掛かる。まず、ナルタさんから演目の「オリジナル台本」をもらって、それを清書するところから始める。本来ワヤンのセリフは即興の要素が強く、台本はあってないようなものなのだが、僕が外国人なので、ナルタさんはわざわざ普段は使わない台本を用意してくれた。しかし、この「オリジナル台本」が筆記体の走り書きで解読困難。この「オリジナル台本」の数行を四苦八苦しながらパソコンで清書。次の練習に持って行って、誤字脱字を修正する。同時にバリ語、カウィ語それぞれの意味と、台詞の内容をインドネシア語に訳してもらう。わからなかった言葉は、練習後にカウィ語、バリ語、インドネシア語のそれぞれの辞書で調べる。これの繰り返しで半年ほどかけて自分専用の台本を作った。先日、この連載を企画してくださった昌福寺のご住職がバリに来た時に、この作業の話をしていて「これは昔お坊さんが中国に渡って仏教経典を訳したりする作業とおんなじようなものかもしれませんね」みたいな話になった。

4月中頃、ようやく最後まで出来上がった「自分専用台本」で台詞の暗記を始めた。運転中や料理中、時間のある時にひたすら復唱する。バリ語、カウィ語両方とも未知の言語なので、実際のところ2言語使っているという感覚はまだなく、とにかくひたすらに暗記。カウィ語は、キャラクターによってメロディ(節)がついているので、それも合わせて覚える。ようやく覚えて、人形と合わせて動かせるようになってくると、ナルタさんがセリフを足してくるのでまた覚え直す。延々とそれを繰り返す。

下手くそなりに台詞も覚え、音楽に合わせて人形も動かせるようになって来て、バリの知り合いから「そしたら滞在中にワヤンのお試し上演してみたら?」と言われた。まさかそこまでいけるとは思ってもいなかったので、試しにナルタさんに相談してみると、真剣な顔になって1冊の本を出して来た。「もしワヤンを上演するなら、上演に必要な呪文を覚えなきゃね」と言って渡されたその本には、膨大な呪文が書かれていた。。。僕はこれから更にこの呪文を覚えることになる。

つづく。

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ひざくりげINDA INDO NESIA 8  アイ ラブ バリ を着る男

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同時連載

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第八話 I BALI を着る男

影絵の伴奏楽器「グンデル」の師匠・サルゴさん(自称65歳)には、弟(自称62歳)がいる。練習していると、自慢の白いベスパに乗ってやって来て練習を眺め、たまにちょっかいを出して帰っていく。そんな師匠の弟の本職はお坊さん。サルゴさんの家では「パマンク(お坊さん)」と呼ばれている。バリ島では家単位、村単位、島単位のありとあらゆるお祭りがほぼ休みなく行われていて、彼も儀式の時は上下白の装束で登場し、粛々とお経を唱える。「ひざくりげ」バビグリンの回で、師匠の楽器の儀式を行ったのも彼である。

 

ヒョロヒョロと痩せたサルゴさんに比べ、パマンクさんは恰幅が良く、長髪を後ろに束ねている。若い頃は、お祭りの余興で開かれる舞踊劇で「ビマ」や「ガトカチャ」と呼ばれる、バリで人気の荒型の踊りをよく踊っていたそうだ。60歳を超えた現在も現役で、観光でも知られる獅子舞「バロン」や魔女「ランダ」の踊りも踊るそうだ。特に儀礼で踊られるランダの踊りは、みんな踊るのを恐がって踊れる人が少ないので、お坊さんでもある彼が良く指名される。

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先日も、サルゴさんの家で練習していると、パマンクさんは「I BALI」とデカデカと胸に書かれたタンクトップと、それとお揃いの青いジャージを履いてやって来た。冗談かと思う格好をしていたので、思わず写真を撮ってしまった。その時は、日本から来た整体師の友達が、練習後のサルゴさんに施術をすることになっていて、パマンクさんはそれを見物に来たのだった。(あわよくば、自分もマッサージしてもらおうとしていて、その願いは後ほど叶うことになる。)

サルゴさんの施術を傍で見ている間、パマンクさんはいつものように冗談話をしていたが、「日本はお金持ちの国だと思うんだけど、バリは貧しかったよ」という前置きをして、いつの間にか彼の子供の頃の話をはじめた。

「土でできた床は暖かかった」

今から50年以上前のバリの話。昔のバリの家は、地面から50cmほど土をもり、それを平らに均しものに屋根をつけただけのものだったらしい。今ではバリのどの家でも、その床はセラミックなどで作られていている。昔に比べて清潔に見えるし、雨の時に泥だらけにならなくて済むが、あまり長い時間座っていると体がかなり冷えてくる。それに比べて土の床は、土そのものの暖かさが伝わって暖かく、気持ちが良かったそうだ。

「最近の人は、サンダル履いちゃうから、足の裏がツルツルで良く滑る」

その頃の人たちは、裸足で生活していた。だから、足の裏の皮がとても厚く、ガサガサしていたようだ。足の裏の話をされて、東バリにあるバリ先住民の村「トゥガナン」に行った時のことを思い出した。トゥガナンは、観光地としても開かれていて、古いバリの住居や、道がそのまま残されている。山の中腹にある村は、大きさが不揃いな石畳の坂道で構成されている。僕がトゥガナンに行った日は雨が降っていたので、石畳をサンダルで歩くとつるつる滑って大変だった。これは昔の人も大変だったろうな、とその時思ったのだが、もしこれが裸足だったらそんなに滑らないんではないか、とパマンクさんの話を聞いて思いなおした。

「昔のご飯は、味気なかったけど、みんな健康だったよ。最近使われてる調味料は、口で美味しいって感じるけど、お腹が美味しがっているかわからないよね。だって、わしらはそれを食べてたくさん病気してる。」

サルゴさんとパマンクさんは一緒に小学校に行っていた。その頃、朝食はなかった。小学校が終わって昼過ぎに帰って来ても、まだご飯ができないこともあった。ご飯といっても、今のような白米ではなく、米と芋、もしくはトウモロコシを混ぜ合わせて炊いたもので、お米の分量はほんの少しだった。7ヶ月に1度訪れる島を挙げてのお祭り「ガルンガン」の時にだけ、白米のご飯を食べた。もちろん、肉(豚肉)も、そのお祭りの時にだけ食べられるご馳走だった。普段は、唐辛子とニンニク、塩を少々の油で炒めたものをおかずにしてご飯を食べた。基本的には夕ご飯はなく、昼作ったものが余っていたら、夜その残りを食べる程度だった。

「別に昔が良かったとは言わないよ。だって今の方が断然豊かだもの」

誰もお金を必要としていなかった。小学校の教科書や筆記用具は、学校が支給してくれたそうだ。現在、パマンクさんには、8歳になる孫がいる。小学校に入学する時に、教科書、筆記用具を買うのはもちろん、建物新設のための補助金を払わなくてはいけない。さらに中学校になると、通学のためのバイクや、今や全世界で必需品になろうとしているスマホを買ってあげたりと、何かにつけてお金がかかってしまうそうだ。「おじいちゃんの子供の時は、バイクなんて村に2、3台しかなかったんだぞぉ〜」と自分の子供時代の話を孫に向かってすると、「おじいちゃんの時代と一緒にしないでよ〜」と言われてしまう。日本でもよく聞く話である。

バリ島が世界中から地上の楽園といわれて久しい。僕を含めた多くの外国人が、観光で訪れるようになった。現代社会の枠組みの中に入れられたバリの人々は、多くの変化を要求されている。それは昔の日本の姿と重なる部分もある。数万円で世界中を旅できる今、楽園たるべきその本来の姿をそのままに保持していくのは難しいだろう。

それではどのようにして生きていこうか?「別に昔が良かったとは言わないよ。」というパマンクさんの言葉に考えさせられる。

50年前、サルゴさんとパマンクさんは、小学校の帰り道に道端に生えているバナナや、人の家のパパイヤとかマンゴーとか、目に入った果物を勝手に取って食べていた。たぶんこの二人だけじゃなくて、当時の島の子供たちは、お腹を空かした昼下がりに皆そうしていたのだろう。そういう豊かさをバリ島はもっていた。

「昔は人の家のパパイヤを勝手に取っても、誰も怒ったりしなかったよ。みんながそれでいいと思っていた。お腹は空いていたけど、みんな健康だったし、それで幸せだった。」

笑いながら話すパマンクさんのタンプトップには、冗談みたいなI BALIが光っている。

つづく。

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ひざくりげ INDA INDO NESIA 7  ジャワ島布と鉄道の旅と娘の友達

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第七話 ジャワ島布と鉄道の旅

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何年も前から、母が中部ジャワに残る世界最大級の仏教遺跡「ボロブドゥール寺院」に行きたいと言っていたので、家族旅行も兼ねて僕と妻と娘(8ヶ月)と母の四人でジョグジャカルタに行く。出不精の父は日本でお留守番。壮大な仏教遺跡で日の出を拝み、超高級ホテル「アマンジワ」のランチを食べたりして数日過ごした後、妻と娘と母はバリ島に戻り、僕は一人ジャワ島バティック産地をめぐる鉄道の旅に出た。

インドネシアの名産品バティックのほとんどはジャワ島で作られている。日本では「ろうけつ染め」と言われているバティックは、主に腰巻に使われる布にロウで図柄を描き、そのあと染料に浸して色をつける。ロウをつけたところには色が入らないで白く残って模様になる。絵付けの方法は手描きか、銅版スタンプの2種類。手描きバティックは伝統的に女性の仕事であり、今でも工場やお店の軒下で女性たちが絵付けをしている風景が見られる。手描きバティックの最高級品は、絵付けに半年~1年かかるものもあり、そういったバティックは何百万円にもなるという。
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昨年末にバティックの中心地である中部ジャワの「ジョグジャカルタ」と「ソロ」の2都市には行ったので、今回は「辺境のバティック」を探しに行くことにした。バティックの産地は、東西に広がるジャワ島の北岸に集中している。もともと、大陸との貿易が盛んだった港街に、バティックを買い求める商人が多く集まったことが始まりだと思われる。ジャワ島には、この北岸の港街をつなぐ鉄道が走っていて、今回はその鉄道に乗ってバティック産地を巡った。僕は決して「鉄ちゃん」ではない、と自分では思っているが、鉄道が張り巡らされた日本から、ほぼ鉄道のないインドネシアに来ると、なぜだか無性に列車に乗りたくなった。

車窓からは、延々と続く田園と椰子の森、広大な緑。

ジョグジャカルタから北西に4時間。西ジャワの街「チルボン」がこの旅最初の目的地。ジャワ島は大きく分けて西ジャワ、中部ジャワ、東ジャワの3つの文化圏がある。チルボンには王宮があり、現在でも王族が住んでいる。4_チルボンのバティックコンパニ
「バティック・コンパニ(植民地時代のバティック)」といわれるこの街発祥のバティックは、主にオランダ占領時代に確立されたデザイン。兵隊や、船、働く人たちをモチーフにした図柄が多い。上品で細密的な中部ジャワの王宮バティックに比べて、素朴でどこか間の抜けた感じがとてもいい。
チルボンのバティック街には、100件以上のバティック屋が立ち並び、お店ごとに大量のバティックが山積みされて売られている。お気に入りの一品を探すには相当の覚悟がいる。まして、「バティック・コンパニ」は少し時代遅れのデザインなので、置いている店も少ない。置いてあったとしても、年代物の高価なものが多くて手が出せない。炎天下の中、2日間探し続けて、気に入ったバティックを数枚見つけた。

チルボンから東へ2時間、第二の街は中部ジャワ北岸に位置する「ペカロンガン」。ここでは女性に人気の花柄バティックが量産されている。小さいが趣のある街並みが美しい。5_ペカロンガン_花柄バティック    6_ペカロンガンのバティックドンゲン
ペカロンガンのバティックミュージアムでは、ガイドさんがとてもよく解説してくれたので、この街のバティックの歴史とメンタリティを知ることができた。ペカロンガンのバティック職人は古くから中国、ヨーロッパ、インド、日本の影響を受け、高い技術と海外のデザインが融合した新しいバティックを作り続けてきた。一つ例を挙げると、「バティック・ドンゲン」と言われる、ヨーロッパの民話(シンデレラや白雪姫など)をモチーフにしたバティックがある。その昔ジャワ人と結婚してペカロンガンに移住したヨーロッパの女性が、生計を立てるために、祖国のモチーフを使ってバティック作り始めたことがきっかけになっている。新しいものを取り入れることに、抵抗のない気風を感じる。ジョグジャカルタやソロのように、描かれた模様に哲学的意味を求めるというよりも、美的センスや、良い意味で「売れるバティック」を作ることが、この街では大切とされている。7_マドゥラ島に渡る船

この旅の最終目的地「マドゥラ島」には、ペカロンガンから鉄道で東に5時間、東ジャワの中心地でインドネシア第二の都市・スラバヤから船か橋を渡っていく。日本と比べてのんびりしているインドネシアの鉄道。ペカロンガン出発が2時間も遅れ、駅で待ちぼうけの時間を合わせると7時間かかってスラバヤに到着。この日は街のホテルで1泊して、次の日の早朝マドゥラ島に出発。一見すると瀬戸大橋のようなスラマドゥ大橋を横目にフェリーで島へ渡る。バティックの中心地・パムカサンまではさらに車で4時間。幹線道路は一つしかなく、時々起こる渋滞にうんざりしながらパムカサンに着く。
ネットなどで調べてもパムカサンの情報がほぼなかったので、街のバティック市場に行ってみる。田舎町なので見た目は閑散としていたが、置いてあるバティックの量がこれまた大量で、一通り眺めるだけでも1時間以上かかった。マドゥラバテックは、荒々しく抽象的なデザインで有名。手頃な値段のものが多かったが、これはいい!と思ったバティックは、やはり年代物の超高級バティックでびっくりするような値段だった。8_マドゥラ島のバティック

近年、バティック柄を模したプリント生地が多くなり、手描きバティック職人が減ってきていると聞く。一見普通の布に見えても、広げてみると、ブワッと凄まじいエネルギーを放つのが手描きバティックの魅力である。そんな歴史と人間をまるごと染め込んだような布たちが、年々少なくなってきているのを残念に思う。
布との出会いは、まさに一期一会である。

バティックをめぐる1週間の鉄道旅を終え、バリに戻ると嬉しい再会があった。
僕は2011年、あの大混乱の年に、当時ガムランを教えていた地元の小学生たちと、夢の島の大きなフィールドで飴屋法水さんの「じ め ん」に参加した。その当時、参加していた子供から「大きくなったら一人でバリに遊びに行きたいんだけど、いくらあったらいけるかな?」と聞かれた。なかなか面白い子だな、と思っていたら、先日その子が本当にバリに遊びに来た。しかも初海外。あれから6年、大人にとってはあっという間である。僕の娘は年の近い~と言っても18歳離れている~友達ができたと思って大喜び。僕は「イケイケ」という言葉が通じず、「たぶんそれは『パリピ』っていうんだと思います」と言われて少々凹んだ。
そういえば、僕が初めてバリに来たのも、19歳の時だった。
つづく。

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ひざくりげINDA INDO NESIA 6 枝葉の物語

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

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第六話 枝葉の物語

ワヤン(影絵)の師匠・ナルタさんに習い始めて半年が過ぎようとしている。1時間半のレッスンを週2日というスケジュール。一見少ないようでいて、その情報量は膨大である。物語の筋を理解し、未知の言語「バリ語」と「カウィ語(バリの古語)」によるセリフの解読と暗記、数々の唄とキャラクターによる声色、人形の操作、右足に挟まれたチュパラといわれるバチのさばきetcなどの習得。半年の間、たった一つの物語を題材にレッスンを重ねてきたが、今までやってきたことを理解するのに何年かかるのだろう?と途方に暮れてしまう。18301074_786847851472569_7163908434025755433_n

レッスンだけではサンプルが少ないので、ナルタさんに聞いて、できるだけ多くのワヤン上演も見に行っている。しかし、肝心の師匠、ナルタさんのワヤン上演は、高齢のため現在ではほとんど見ることができない。この滞在中のどこかで、1度でいいから見たい、と思っていたら、ナルタさんから、儀礼のために上演される昼間のワヤン「ワヤン・ルマ(WAYANG LEMAH)」の奉納があると教えてもらった。

日本では、ワヤン=影絵と訳されてしまうが、バリ島の人たちは、単純にワヤン=影絵とは考えていないようで、「ワヤン・ルマ」は昼間上演され、スクリーンもなければ影絵も登場しない人形劇である。

「ワヤン・ルマ」はバリ島の儀礼には欠かせない。

バリ島には、神様の儀礼、死者の儀礼、お坊さんの儀礼、人間の儀礼(通過儀礼など)、魔物の儀礼(生贄の儀礼)という5つの種類の儀礼がある。奉納上演される「ワヤン・ルマ」の演目は、儀礼の種類によって変わり、それぞれの物語は儀礼の内容とリンクしている。例えば、先日ナルタさんが奉納上演した魔物の儀礼ブタ・ヤドニャ(BUTA YADNYA)のための演目にデティオ・バコ(DETIO BAKA)というものがある。18342553_786847581472596_7982303131966761279_n

DETIO BAKA

エカチャクラ国という国に、人を生贄として食べる魔物デティオ・バコがいた。エカチャクラ国の高僧ビクソ・カルマは、その年の生贄を決めなければならず、途方に暮れていた。そこへ旅の途中に通りかかったパンダワ5兄弟とその母クンティ(「マハーバラタ」の主人公一家)は、その魔物の退治を引き受ける。パンダワの次男で怪力のビマは、生贄の中に紛れてデティオ・バコの住む川のほとりへ行く。川のほとりについたビマは、デティオ・バコが現れる前に、用意されていた生贄を食べてしまう。それを見て襲いかかるデティオ・バコは大木でビマを殴るが、ビマはかまわず生贄を食べ続ける。怒ったデティオ・バコはビマに襲いかかるが、逆に退治されてしまう。その後エカチャクラ国は平和になりパンダワ5兄弟とその母は、また次の国へと旅を続けた。18275232_786848084805879_7859999862264454970_n

ワヤンが上演されている横では、生贄の供物が捧げられたり、お坊さんがお経を読んでいたり、爆音でガムランが演奏されたりしている。周りの音にかき消されて、ワヤンの上演は音も聞こえず、ほぼ誰も見ていない。長い問答のシーンでは、伴奏楽器のメンバーもそっぽを向いている。誰も見ていないところで、ナルタさんが一人でワヤンを上演している。捧げものとしての上演。外国人である僕にはその心のうちはわからない。観客もいない場所でただ一人、神様に向けてワヤンを上演するというのはどういう気持ちなのだろうか。

この上演の数日後、ナルタさんの後輩であるダラン(影絵師)のジュアンダさんが、夜のワヤン「ワヤン・マラム(WAYANG MALAM)」を上演するとの情報を聞いて見に行く。

「ワヤン・マラム」は前述の「ワヤン・ルマ」と違い、スクリーンと松明を使って「影絵」を上演する。お祭りの余興として上演され、観客もいる。ジュアンダさんはバリ芸術高校ワヤン科(バリにはそういう学科がある!)の学科長で、現在バリで活躍する実力派ダランの一人である。とにかく声が素晴らしい。18275139_786848388139182_750807153176853357_n

20時から始まるといわれて会場に行くと、まだ何の準備もされていないステージ横で、出演者たちは談笑している。時間に正確な日本人が悩まされる「バリ時間」というやつである。結局21時に始まったワヤンは,23時過ぎに終演。バリ語とカウィ語を勉強しているとはいえ、まだまだ初心者。ダランが語る台詞の10%も理解できなかった。

後日、ナルタさんに、ジュアンダさんがやっていた演目が何かを聞くと
「あれはカウィ・ダラン(影絵師による創作)だよ」
と教えられた。

ダランは、儀式などでも用いられる主要な物語を最低10個~20個ほど知っていて、そこから派生する創作、外伝を無限に作り出す。夜のワヤンでいつも同じ話ばかりやっているとお客さんが飽きて帰ってしまうからだ。ナルタさんはその昔、150余りの外伝を作り、ある村のお寺で毎年行われるお祭りでは、今まで一度も同じ物語を上演していないそうだ。

日本では、昔話を創作で語るとなると、ものすごく現代的な雰囲気がしてくるが、バリのワヤンでは、元ネタの哲学を継承してどれだけ豊かなバリエーション(外伝)を作るかが、ダランの重要な能力であるようだ。

ナルタさんは創作ワヤンのことを
「枝葉の物語(CERITRA CARANGAN)」
とも言っていた。

大きく根を張った幹から、無限に伸びる枝葉の物語。

ダランが蓄積してきた膨大な知識とエネルギーは根となり立ち上がる巨大な樹からは瑞々しく光る枝葉が無限に広がっていくそんなイメージが湧いてくる言葉だった。
つづく。   18342032_786847468139274_4038445419699643862_n

ひざくりげ INDA INDO NESIA 5 ニュピとジャカルタ

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ひざくりげのパラレルストーリー

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』
──昌福寺の花祭をめざして──
第五話 ニュピとジャカルタ

2017年(サカ暦(caka)1939年)3/28はニュピという、バリの特別な日。 静寂の日ともいわれるこの日は、スピ(sepi)=空いている、というのが語源らしく、とにかく 何もしないで家にいることが薦められ、基本的に外出禁止。火や電気を使ってはいけない。村や 地域によって、ルールの厳しさに多少の差があるようだが、概ねこのようにいわれている。昔は 36時間(ニュピ前日の夜18時~ニュピの次の日の朝6時まで)火を使ってはいけなかったそうだ。17861914_770960096394678_8087150079062035545_n

僕はニュピにバリにいるのが初めて。
前回インドネシアに長期滞在していた2004年、ニュピの日に僕はバリにおらず、その日は東ジャ ワにあるヒンドゥー教の聖地・ブロモ山(gunung Bromo)にいっていた。すると帰りにひどい高 熱が出る。バリに戻って数日うなされていると、いつの間にか身体中に発疹が。。。当時まだ日 本ではあまり知られていなかったデング熱も、高熱と発疹がでるらしいので、心配になって病院 に行くと、発疹チフスにかかっていた。日本でチフスって言ったら、まぁまぁ大変な感じに受け 取られるが、バリの人たちにとってはたいした病気ではないらしく 「チフスだったら、おかゆでも食べてれば治りますので。。。」 なんて言われて、抗生物質渡されて帰された。

今ではいい思い出だが、その時は死ぬかと思った。17799469_770959899728031_7837150340009743082_n
もしかして、外出禁止の日なのに、外(しかも島の外)に行ったからバチが当たった?みたいなことを考えて、もし次自分がインドネシアにいる時にニュピにあたったら、必ずバリにいよう、と思っていた。
ニュピの1週間ほど前に、村の自警団が家に来て「ニュピの心得」なるものを置いていく。
○火(電気も含む)は、怒りの心を表すため、使用を禁じます。
○精神を綺麗にするため、仕事や物理的活動を禁じます。
○外出を禁じ、自分の内面と向き合いましょう。
○エンターテインメントやレクリエーションなどはせず、高い精神を養うことを目指して過ごしましょう。
むむむ。怠惰な日本人にはものすごく厳しいきまり。。。とはいえ、これだけ厳しいことを書いてあっても、みんながみんなこれを守っているわけでもないようで、外出はしないにしても、夜の食事時はちょっとライトをつけていたり(実際ご近所に何件かあった)、家の中でカードゲームやったりしている。
ニュピの朝、起きぬけにまず感じるのは、その音。鳥や犬の鳴き声以外、まったく何も聞こえない。人の生活を感じる音~料理や庭履きの音、バイクや車の排気音、人が行き交う気配の一切合切がない。
いつもの町並み。音だけが全く失われた世界。
我が家はというと、上記に出ていた決まりの「外出」以外を全てぶっちぎって、この日のために 日本から取り寄せていた海外ドラマのDVDを、朝から晩まで見てやるぞ!と思っていた。しか し、周りの家が想像以上に静かだったので、びびって無音、字幕でこそこそ見ることにした。

このニュピという日、1日体験して思うのは、日本でもこういう日があったらいいのにな、とい うこと。日頃生活している場所で、普段しているような生活音や、人が歩いている気配のない道 を見るのは、特別な感慨がある。実際、火も電気もつかわないので(携帯やっている人はかなり いたと思うけど)、周りにウンウンと動くエネルギーが全くない。まさに静寂を味わえるのは貴 重である。さらに夜、街灯も、家々の明かりも全くついていないと、あんなにも星が綺麗だとは! そんな体験が、例えば東京のど真ん中で味わえたとしたら、それはそれは素晴らしいだろうと思っ た。17862620_770960309727990_632500714408170782_n

そんな感慨にふけっている暇もなく、ニュピ明けの朝、僕はインドネシアの首都ジャカルタにい た。インドネシアの大手新聞社「KOMPAS」が運営するギャラリーで影絵と音楽のパフォーマン スをするためである。昨年末に参加したジョグジャカルタの人形劇フェスティバルを見に来てい たkompasのプロデューサーが、僕のパフォーマンスを気に入ってくれて、呼ばれることになっ た。心を空っぽに!というニュピのありがたい教えが吹っ飛ぶほどの大都会・ジャカルタ。経済 成長著しいイケイケのインドネシアの首都である。大渋滞と排ガスで汚れた空気、しかしそれを ものともしない人々の陽気なエネルギーを感じる。会場のkompasも、昨年新しく高層ビルを建 てたらしく、久しぶりの大都会に興奮する。17834241_770960686394619_1963534726465714876_o

プロデューサーから、ワークショップとパフォーマンスを依頼されていた。ワークショップは平 日の午後にもかかわらず、かなりの人が集まる。体験コーナーをたくさんやろうかな、と思っ て、いろいろネタを考えてきたのに、影絵体験もそこそこに質問責めにあう。さすが、影絵の伝 統を持つ人たち、飛んでくる質問のレベルがかなり高くて、答えるのが難しかった。日本人にとっ て目新しい影絵も、彼らにとっては日常の一部である。

夜のパフォーマンスも大入り。在ジャカルタの友人や、日本の方達も来てくれた。公演は1時間程度で全編インドネシア語で行った。影絵と音楽をやりながら外国語でコメディーをやるのはとても難しいが、インドネシアのお客さんたちはみんな暖かくて、大いに盛り上がる。彼らは、何かを見に来る、というよりも、何かを楽しみにくる、というのが染み付いてる。根っからのお祭り民族なんだろうな。17523319_770960459727975_193371556263909574_n

当日いきなり聞いたのが、インドネシアのテレビ局が取材に来ていて、僕のドキュメンタリーの 放送がすでに決定していたこと。しかも1時間半枠。とてもありがたいことだが、なんの事前相談 もなく物事が進んで行っちゃうっていうのが、インドネシアンスタイルである。

つづく。

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TRSO X 川村亘平斎 2015-2016東北影絵芝居プロジェクト特設サイト

震災から丸6年経った節目の日に
TRSO東北復興支援機構の一環として
2015-2016市民参加で製作させていただいた
南相馬影絵【ヘビワヘビワ】2015
山形影絵【ハハハハハハハハハハハハハハハ】2016
影絵プロジェクトの特設サイトがリリースされました。

http://blog.tuad.ac.jp/trso/kage/

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サイト内では、【ヘビワヘビワ】の製作動画もご覧になれます。
【ハハハハハハハハハハハハハハハ】については、切り絵イラストと一言寄せさせていただきました。

制作に携わっていただいた多くの方々に改めて感謝。

ひざくりげ INDA INDO NESIA 4 カリマンタンのジャングルにて

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ひざくりげのパラレルストーリー

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』
──昌福寺の花祭をめざして──
第四話     カリマンタン

カリマンタンに行く。
一言でカリマンタンに行く、といっても日本の約二倍もある島である。
そのほんの一部にお邪魔した。
今回の主なミッションは、NGO【FNPF(Friends of the National Parks Foundation http://www.fnpf.org)】に参加している日本の友人を頼って、中部カリマンタンのタンジュン・ プティン国定公園に行き、野生のオランウータンに会うこと。さらに、その近くの村で「サルのニシオカ」の影絵公演をやることである。今まであまり深く考えたこともなかったが、オランウータンの住む島で、「サルのニシオカ」を演じるのは感慨深いといえば感慨深く、もしかするとサルのニシオカの故郷はカリマンタンなのではないか?と思い始める。

インドネシア領・中部カリマンタンのタンジュン・プティン国定公園には、ジャカルタからローカル線の飛行機に乗って向かう。首都から1時間半でこんなに田舎?ってくらい小さな空港。僕の持っている携帯電話は圏外。電波のある暮らしに慣れまくっているので、少々不安になる。後で聞いたら、僕の使っている電話会社が都市部でしか通じないだけで、カリマンタンのジャングルの中でも通じる電話会社もある。

1日目は、市内にあるFNPFの事務所、と言っても森の中、に1泊して、2日目の早朝からいよいよジャングルへ。FNPFの日本人チームが企画した「遠足」に同行する。インドネシアには、日本の小、中学校でやるような遠足のカリキュラムがないそうなので、それを試しにやってみるという企画。今回は近所の中学生達とジャングルに入ることになる。17191674_752956888194999_2636849626478131042_o

河口にある港町・クマイから20人乗りの渡し船で対岸へ、そこからは未舗装道路が続く。ピックアップトラックの荷台に乗って、グワングワン揺らされながら、森の奥へと入って行く。次第にあたりは、見渡す限りパームヤシのプランテーションになる。碁盤の目状に区画整理されたエリアに、前後左右均一にパームヤシが植えられている。地平線の果てまで、見渡す限りパームヤシ。 区画のどの角を曲がっても全く同じ風景。パームヤシの迷宮。その道に立った時に、日本で聞いていた「プランテーション」という、なんとなくのんびりした雰囲気とは裏腹に、太古からある植物を使って、現代の欲望を満たそうとしているような禍々しさを感じた。パームヤシは4年目から収穫可能で、約25年でその一生を終える。あの巨大な木からは想像もできないくらい短命である。 FNPFに関わっている日本人の友人が、原料にパームヤシが入っている製品を全く使わずに生活してみようと試みたところ、完全な自給自足をしなければ不可能である、と言っていた。それくらい私たちの生活には、パームヤシを使った製品が流通している。

プランテーションを抜けると、原生林の入り口の少しひらけた場所に入る。FNPFでは、2015年 にあった原生林の山火事跡に植樹をするプロジェクトをやっていて、ここにはその前線基地が置かれている。中学生達は、植樹活動をしたあと帰宅し、僕は現地スタッフとともにそこで一泊することになった。水は雨水を溜めたものしかないので、あまり贅沢には使えない。茶色く濁った貯水を煮沸して、飲み水にも使う。自由に水が使える生活のありがたさを、たった1日で考える。 電気はガソリンで動く発電機を借りてくるか、日中太陽電池で貯めたランタンくらい。夜7時には真っ暗。小屋から原生林を眺めていると、騒がしい鳥と虫の音が聞こえてきて、吸い込まれそうになる。あぁ、このまま森に飲み込まれていったらとても幸せかもしれない、とふと思う。この島において人間は、圧倒的な森のほんの微細な一部でしかなく、その巨大な森の片隅にしがみついている小さな生き物であることを、知らしめられる。

街灯もない迷宮のようなプランテーションを平然と行き来する現地スタッフに頼んで、原住民ダヤックの人たちが作る米焼酎・アラック・ブラス(ARAK BERAS)を買ってきてもらう。日本の焼酎に比べてやや癖があるが、旨い。ダヤックの民は、祭りの時に樽一杯にアラックを作って、1ヶ 月土に埋めて熟成させた豚肉とともにいただくそうだ。17192597_752957554861599_2417428785598003596_o

3日目は、いよいよ原生林の奥へと入っていく。移動手段はボート。中部カリマンタンのジャングルには無数の川が流れていて、現地の人々にとって最も早い交通手段は舟である。

船着き場に行ってみると、びっくり。僕はてっきり、空港のポスターで見た観光用の船(デ○ズニー ランドのジャングルクルーズみたいなやつ)に乗るのかと思っていたら、用意されていたのは、現地の釣り人が乗る6人乗りの小舟。一応エンジン付き。前日、この川はオランウータンとワニで 有名、と聞かされていたので、一抹の不安を抱えながらジャングルに漕ぎ出す。

僕たちは、テレビや本やいろいろなメディアで、すでにジャングルを見たことがある。僕がこの日入り込んだ場所も、まさにその風景。ただ、圧倒的に違うのは、両岸に所狭しと生きた森が生い 茂り、そこから発散されるエネルギーのすごさ。後日バリに帰ってから、妻に「カリマンタン言っ て、ずいぶん元気になったんじゃない?」と言われて、森からのエネルギーをかなりもらっていたことに気づく。17190894_752956718195016_7429679823732508270_n

小舟で上流にいくと、白濁した川の色が、次第に黒く変わってくる。この色が、この川の元々の色だそうだ。ジャングルの落ち葉から滲み出たエキスで、黒く染まった水。昔は呑むことができたという。底が見えないので、深さを聞いてみると、なんと10m。船を止めると、鳥と虫の音以外何も聞こえない。しばらくして波紋がやむと黒い川は鏡のようになって、水面下にもジャングルが広がっているように見える。上を見ても下を見てもジャングル。「2つの自然」。現地の人々 が、5年に1度行う土着の儀式を説明するときに使った言葉。目に見える自然、目には見えない自然。その両方に感謝するため、彼らはその地域にある全ての川に、船の模型を浮かべて祀るそうだ。この鏡のような川を見ていたら、「2つの自然」という言葉の意味が少しわかるような気がした。

ジャングルの川を行き来して、野生のオランウータンや、天狗ザルの群れを見た後に、その川沿いにある村へ行く。今夜のその村で一泊し、影絵の公演をする。この村には電気が通っている。ただし、18~24時までしか使えない。村の若い子たちは、夜のうちに充電しておいたスマホで、動画などを見て遊んでいる。村には小さな川が流れていて、洗濯や水浴びはその川を使う。17098561_752957694861585_7170175001998605022_n

夕方から村の寄り合い所でセッティングの予定が、日が暮れかけた頃に、村の人に 「停電するかもしれないから、影絵できないかも・・・・。」 と言われる。急にそんなこと言われても、と思い、とりあえず会場を見に行く。寄り合い所の前 にある広場に、一応電気は来ているようだが、コンセントがない。

「あー、これはしまった、僕の機材全部電源必要だし、ここまでのところでやると思ってなかっ たなぁ・・・。」
貧弱都会人、秘境に右往左往。 「とりあえず、電気がつながらなかった場合、アイフォンのLEDライトとアウトドア用のヘッドライトで影絵ライトは代用して・・・キーボード(子供用のカシオトーン)は使うのはやめて、声だけでやって・・・、えーっとそうするとどれくらいのことができるかなぁ・・・・」 としばし考える。その間に村のおっちゃんが、どこからか電源ケーブルを持って来て、その場で配線工事。あたりも暗くなってきて、村人たちも集まってきちゃったので、広場にあるバレーボールのネットにスクリーンを張る。ケーブルは繋がったが、5分に一回落ちる電源にヒヤヒヤしながら、 サルのニシオカが登場し、30分程度の公演を行った。影絵を見るのも初めて、ましてや外国人が村で公演するなんて、想像もできなかっただろう村人は、終始ポカンと見ていた。子ども達は、 世界のどこへ行っても変わらず、ワイワイ見ていた。今までいろんな場所でパフォーマンスしてきたが、ここまでの秘境は初めて。インドネシアに修行に来てるなぁ、と実感した夜だった。

4日目の午後、スピードボートに乗ってクマイの街まで戻る。川を下って行くと、ジャングルの植生は次第にその姿を変える。ニッパ椰子は、僕たちに海が近いことを知らせてくれる。たった2 日間森に入っただけなのに、ものすごい旅をした達成感があった。また次行くことがあったら、 今度は夜のジャングルに入ってみたい。

つづく。

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ひざくりげ INDA INDO NESIA 3 バビグリン

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ひざくりげのパラレルストーリー

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』
──昌福寺の花祭をめざして──

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第三話 バビグリン

バリ島には美味しい料理がたくさんある。中でもこれだけは外せない!のはやはりバビグリン= 豚の丸焼き料理だ。漫画とかでよく見る、豚の口からお尻まで棒が通してあって、それをくるくる 回して全身を丸焼きにする、例のアレである。熟練のバビグリン職人が作るバビグリンは、表面の 皮がパリッと香ばしく焼きあがり、香辛料がたっぷり練り込まれた肉はふわふわでジューシー。 儀式でいただく度に、このクオリティーの豚料理は日本ではなかなか食べられないなぁ、と感心 してしまう。

今ではバリのどこでも食べられるバビグリン。もともとお祭りやハレの日に供物として振る舞われ たもの。お祭りの朝になると村に一人は必ずいるバビグリンを焼くのがとても上手いおじさんが やってきて、家の庭で作ったりする。最近は近所で評判のお店に行って注文したりもする。昔は 儀式の日まで各家庭で子豚を飼って、供物として捧げることが多かったそうだ。

2017年2月4日は、バリ暦でトゥンパック・ランドゥップ(TUMPAK LADEP)といわれる金属を 祀る日。元々は武器にたいして儀礼を行う日だったそうだが、最近では武器→金属道具全般にな り、ガムランをはじめとする青銅器や車、バイク、パソコンなんかにもお供えをする。街に出ると ヤシの葉で作ったお供え物をつけた車がたくさん走っている。日本人の僕から見るとお正月のお 飾りをつけて走る車のようにも見える。お供え物のデザインはいろいろあって、トレンドや「イケ てる、イケてない」があるようだ。伝統的なものを遊び心を持ちながら継承していける環境は素 晴らしいことである。経済成長著しいインドネシアでは、だんだんとそのお供え物が派手になっ てきている。

影絵の伴奏楽器「グンデル」の師匠・サルゴさんの家では、2年前に新調した楽器の初めての儀 式をこのトゥンパック・ランドゥップにやるという。儀式の数日前、サルゴさんはニコニコしなが ら「儀式のために、とびきりのバビグリンを注文した!オメェ、車持ってるだろ?取りに行くの 手伝ってくれや!」と僕に告げる。美味しいものにありつけるなら喜んで!ということで儀式の朝、 サルゴさんの家に集合。30分ほど東へ行った街・ギャニアールにあるバビグリン屋へと車を走らせた。16603052_738821276275227_4008041827804497242_n

バリ島の2月は雨期だが、前日まで降り続いた雨が嘘のように晴れた。
田園の先にはバリ島の信仰の象徴「アグン山」がその顔を見せている。
バビグリン屋に到着すると、朝も早い時間なのに屋外にある焼き場で2頭の子豚とたくさんの焼 き鳥が焼かれている。かわいそうよりも美味しそうが先に立つ、現金な人間である。ジュージュー と油滴る注文の品を受け取ると早速家へと引き返す。車の中に豚の香ばしい匂いが充満して、猛烈 にお腹が空いてくる。

サルゴさんの家に戻ると、お弟子さんたちがたくさん集まっている。大量の供物と共にバビグリ ンも供えられお坊さんを待つ。儀式が終わるまではご飯を食べられないので、みんなソワソワし て気もそぞろである。お坊さんのチリン、チリンという鈴の音が延々と続く。16602110_738821492941872_1120455568123790838_o一時間ほど経って、 バビグリンがおもむろにまな板へ運ばれる。近所のおっさんが出刃包丁で頭と胴体をバサっと切 ると、そのままパリパリと皮を剥がして、あっという間に肉を切り分ける。家に集まった40人ほ どの人たちは、各人お皿を渡されてビュッフェ形式で肉とご飯を取る。朝から何時間もかけて用 意されたご馳走は、ものの15分ほどで食べ尽くされる。バビグリンおそるべし。

食後に待っているのは椰子酒・トゥアック(TUAK)。ヤシの幹に傷をつけて出てくる樹液をポリタ ンクに集め、一昼夜置くと出来上がるお酒。ヤクルトと鰹節を合わせたような味で日本人には好 き嫌いが分かれるところ。僕もあまりたくさんは飲めない。男たちは車座になってトゥアックの 入ったポリタンクを囲み、一つのグラスで回し飲みする。アルコール度数はさほど高くなさそう だが、一気飲み+お腹の中で発酵が進むらしく、気がつくとかなり酔っぱらっている。この日振 る舞われたトゥアックは、お弟子さんがくれた純正トゥアックで混ぜ物一切なし!(市場で売って いるものは水で薄められているらしい)ヤシの甘みが心地良くて、今まで飲んだトゥアックの中 で一番美味しかった。16587193_738821609608527_6703780700367164589_o

ちなみに今までで一番のバビグリン体験は、バリ原住民が住む島東部の村・トゥガナンに行った 時のこと。そこで年に1度、3トンの豚を供物に捧げる大きな儀式があり、人間の倍以上の大き さの豚が次々と解体され、運動場いっぱいに並べられた鍋で料理されていた。もちろんその日も 豚以上に大量のトゥアックが用意されていた。

つづく。

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