ひざくりげ INDA INDO NESIA 10 デワ・ルチ

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同時連載

『南海嬉嬉回島伝(なんかいききかいとうでん)』

──昌福寺の花祭をめざして──

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第十話 デワ・ルチ

210日で巡るバリの暦の中に、鉄を祀る日【トゥンパック・ランダップ】というのがある。元々は剣(クリス)を祀る日だったが、転じて楽器や車、最近はパソコンなんかも祀られる。僕がバリ滞在を始めて数ヶ月たった2月の【トゥンパック・ランダップ】には、師匠の楽器の奉納儀礼に参加した(「バビグリン」の回参照)。そして、9月に再び巡ってきたこの祭日に、僕は滞在10ヶ月をかけて修行してきたワヤン・クリット(影絵人形芝居)のお試し上演をすることになった。

ワヤンを習っているスカワティ村では、この【トゥンパック・ランダップ】に合わせて、影絵人形遣い(ダラン)のお寺でお祭りを行われる。ワヤンの師匠・ナルタさんは、3日間あるお祭りの初日に、僕のお試し上演の時間を作ってくれた。

バリ島でワヤンを上演する場合、人形遣いは必ず通過儀礼を行わなくてはならない。ナルタさん曰く「人形使いが通過儀礼をしなかったり、上演に必要な呪文を知らなかったりすることは、目を瞑って道路の真ん中を歩くようなものだ」とのこと。これはバリ島で昔から信じられていることで、ワヤンを上演することは、目に見えない世界にアプローチすることであり、そういう意味で危険がいっぱいである。そういった危険から身を守るための通過儀礼である。

8月の満月の早朝、スカワティ村の高僧の家で通過儀礼を行う。バリ島の儀礼は謎の所作がたくさんである。交差させた手の甲に中国銭を乗せてそれを払いおとす、木で作ったブラシのようなもので爪を磨く、卵で手のひらに梵字を書く、赤と白の綿糸を耳にかけたり手首に巻いたりetc。通過儀礼に使われる聖水は、黄色い椰子のココナッツジュース。一連の儀礼を経て、晴れて僕は正式なバリ島の影絵人形使いになった。

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インドネシア滞在を決めた当初、まさか1年足らずでワヤンを上演できるとは思ってもみなかった。いざ本番を迎えるその日の朝「そもそも、どうして自分はバリ島のワヤンなんかやってるんだ?」という、今更ながら初歩的な疑問が浮かんできた。バリ島において、ワヤンを上演するということは、バリ人の中でさえものすごくハードルの高いものである。まして、外国人がそれを上演するということは、奇跡に近い。しかし、その貴重さは日本の人にはピンとこないものであり、僕の思い入れや努力というものは、そのままストレートに本国には還元されないもの、残酷な言い方をすれば無意味なものなのである。そのようなものにどうして自分がここまで踏み込むことになったのか?それは何処かのタイミングで自分自身が選択した結果の集積であることは間違いのだけど、本番前の緊張も相まって、それは人知を超えたものの仕業のような、とても不思議な気持ちになった。

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僕のそのような気持ちを救ってくれたもの、それは今回上演することになった演目【デワ・ルチ】である。【デワ・ルチ】は、インド伝来の物語【マハーバラタ】を起源とする物語で、ジャワ島、バリ島で上演されるワヤンの有名な演目である。バリ島空港からクタに行く途中のロータリーの石像のモチーフにもなっている。僕は、今回の滞在までこの物語を知らなかった。初めてナルタさんのところに習いにいった時に、ナルタさんが用意してくれた物語がこの【デワ・ルチ】だった。この物語の持つ不思議な説得力に助けられ、上演の日を迎えられた。

ここで【デワ・ルチ】のあらすじを紹介する。前提条件として、マハーバラタの物語は、パンダワという正義の5王子と、コーラワという悪の100王子達による戦記物である、というのを念頭に置いていただきたい。
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【デワ・ルチ】

パンダワ兄弟の次男に怪力無双を誇るビマがいた。ビマの活躍に手を焼いていた敵軍・コーラワ兄弟の長男は、ビマを殺すために彼らの共通の師匠であるドゥルノに嘘をつかせ、あるはずもない聖水をビマに探しに行かせるのであった。

ビマははじめに洞窟へ向かった。そこには2匹の凶暴な龍が住んでいた。ビマはこの2匹の龍を退治するが、聖水は見つからなかった。次にビマはジャングルへ向かうが、ここでも怪物が現れてビマに襲いかかった。ビマはこれも退治するが、聖水はやはり見つからなかった。三度目にビマは海の真ん中へ行けと言われた。ビマの母や兄弟たちは、ドゥルノの度重なる嘘に気づいてビマを止めるが、ビマは「師の教えは死しても守る!」とだけ言ってまた聖水探しに海へ向かった。

大海原に飛び込んだビマは、波にさらわれその命を落としてしまう。するとそこへ小さな小さな神が天空からやってきた。【デワ・ルチ】と名乗るその神はビマを生き返らせて、こう言った。「私の体の中に入りなさい」ビマは半信半疑で【デワ・ルチ】の中に入ると、そこは七色に輝く世界が広がっていた。ビマはその時にこの世のあり様の一端を悟る。【デワ・ルチ】はビマが探している聖水が、天界にあることを教えた。ビマは天界に向かい、神々と戦って聖水を手にいれた。

人間界へ戻ったビマは、師・ドゥルノに聖水を渡すが、ドゥルノはビマが持ってきた聖水が本物であると信じなかった。すると【デワ・ルチ】が現れ「これは本当に聖水である。おまえはビマを騙した罪を償うがいい」といい、ドゥルノを海の真ん中まで飛ばし、溺れ死にさせようとした。それを見たビマは、海まで向かいドゥルノを海から助けた。ドゥルノはビマに助けてもらった恩義を感じ、のちに起こるであろうパンダワ一族とコーラワ一族の大戦争の時に「この借りは必ず返す」と約束したのであった。
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数多いマハーバラタ由来の物語の中でも、かなり幻想的なお話である。この【デワ・ルチ】を10ヶ月の間、ナルタさんから繰り返し教わることによって、物語の内側に流れる無数の教え、まさに【デワ・ルチ】がビマを呼び込んで見せた内的世界を、何重にも体験することになった。私たちは、現代社会の中で自分にとってネガティブなものことに、過剰にならざるを得ない。しかし、この物語の一つの解釈として、ビマが嘘をつかれたことによって真実に行き着いたことは、ネガティブなものを受け取ったとしても、それが結果としてポジティブなものになる可能性があるということ、そのような希望や強さを持つことの大切さ、を表しているようにも思えるのである。

2017年の9月2日は忘れられないに日なった。誤解を恐れずにいうと、スカワティ村という世界一の影絵人形師たちが住む村で、世界一の影絵人形師たちに見守られ、僕は未熟ながらも影絵人形師としての新しい人生を始めることになった。彼らからもらったたくさんの発見に、これからゆっくりと向き合っていこうと思う。

つづく。

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9/2 バリ島・スカワティ村のお祭りにてワヤンのお披露目上演

インドネシアに滞在し、約10ヶ月修行してきたバリ島の古典影絵人形芝居・ワヤンクリットのお試し上演をさせて頂くことになる。僕がワヤンを修行しているスカワティ村はワヤンが盛んな村として有名で、バリ島唯一ダラン(影絵人形師)の為のお寺がある。そのお寺のお祭りの余興として上演することになった。自分の創作をでなく、古典をやるということで大緊張している。

※ご興味のある方は、バリ島 スカワティ村 プラ・グヌン 現地時間21時頃から上演予定です。

※お越しの際は、現地の正装(腰布等)でお越しください。

 

 

師匠と師匠の息子たちと 演奏者は皆この村に住む人たち

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10ヶ月練習した演目だが、演奏と合わせたのは初めてで、本番前のリハは1回だけ。

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上演に先立って、先月ダラン(影絵人形師)になるための通過儀礼を行う。

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影絵の象徴・カヨナン試作

植物について。 バリの影絵の象徴物 カヨナン 試作品 第一号 カヨナンには、深い哲学が刻まれている。それをもとに再構成を試みる。

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製作過程

インドネシア滞在も残すところ3ヶ月あまり。残された宿題はまだまだ沢山あって片っ端からトライ。似顔絵影絵は一休みして、ここから先はひたすらに植物について考える。

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練習 東南アジア全域で使われている扇型の影絵人形は、植物をモチーフにしている。そのままだと、あまりにも硬派なので、新しい展開を模索。第一段階として。

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龍 植物に続いて。 バリの影絵の象徴である扇型の人形には、龍がかたどられている。

 

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ひざくりげINDA INDO NESIA 9 言葉と呪文

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第九話 言葉と呪文

ワヤン(影絵人形芝居)の師匠・ナルタさんに「ダラン(影絵人形遣い)のパフォーマンスで一番大切なのはなんですかね?」と聞くと、迷わず師は「声だね」という。ゆらめく椰子油の炎を前にして、朗々と謳われるダランの声こそが、バリ島のワヤンにとって最重要事項のようだ。その声によって語られる言葉たちは、バリ島の精霊たちと観客を繋ぐ架け橋として信じられている。バリ島の人々はダランの言葉から古きを学び、今いる自分たちの生きかたを再確認する。そのダランがワヤンの中で使う言葉は「バリ語」と「カウィ語」の二種類である。20626603_837131203110900_7798302589217232372_o

インドネシア滞在開始から9ヶ月。ここまでの滞在のほとんどは、この2つの未知の言語との格闘であった。ダランは影絵人形を動かすよりも先に、演目に必要なこの2言語を覚えなければならない。こちらに来たばかりの頃は、影絵のなんたるかを考えようとバリに来たのに、その前に未知の言語を覚えなければならないということに途方に暮れていたが、この2言語を理解しなければ先へは進めないのだ!と腹をくくって取り組むことにした。

インドネシア共和国は数多くの島々が集まって一つの国になっている。西のスマトラ島から、東のパプアまで、東西の距離はアメリカと同じくらい広い。インドネシア共和国内の島々は、もともとそれぞれの島に独立した文化を持っていて、それぞれの島の言語を使っていた。インドネシア共和国独立時に、それらを統合するためにマレー諸国で広く使われていた「ムラユ語」をもとにした新しい言語「インドネシア語」を作り、公用語とした。インドネシア語は、国内に住む別々の島民同士が会話するために使われる言語で、各島々の原住民どうしはその島固有の言語を話している。バリ人どうしはバリ語で話し、ジャワ人どうしであればジャワ語他ジャワ島の地域言語を話す、といった具合である。インドネシア語とバリ語は、文法こそ似ているがほぼ違う言語といってもよく、日本語における標準語と方言の関係性などとは比べられない。インドネシア共和国内の他の地方言語も然りで、言語だけ見てもかなり多様な人種と文化が共存しているのが伺える。

僕は大学の頃にインドネシア語を習っていたので、インドネシア国内での日常生活には困らないのだが、バリ島の現地語であり、バリ島のワヤンの必須言語の一つである「バリ語」となると全くわからない。そしてさらに厄介なのが、次に出てくるもう一つの言語「カウィ語」である。

ワヤンは、インド伝来のマハーバラタ、ラーマヤナという神話をベースに、数多くのキャラクターが登場する。そのほとんどは「カウィ語」を話す。「カウィ語って一体なんですか?」とナルタさんに質問してみると、「古代ジャワ語」だという。この言葉は、バリ人でもほとんど理解できる人がいない。では、カウィ語を理解できないバリの観客たちにどうやってストーリーを伝えるのか?そのためにバリ島のワヤンは特殊な演出を加える。ダランはカウィ語を使うキャラクターの言葉を、道化のキャラクターたちにバリ語に翻訳させて、物語を進めていくのである。観客は道化が語るバリ語を聞いて、初めて内容を理解する。なんでそんな面倒なことをしているんだ!ということは考えても仕方がない。それが伝統芸能というものである。

ここで、インドネシア語とバリ語とカウィ語の違いを例にあげてみる。学校で英語とか勉強するのが苦手だった人(僕もかなり苦手)には、みるだけで嫌になっちゃうような、教科書例文的な感じで申し訳ないのですが。

日本語 : 到着する
インドネシア語 : datang / tiba
バリ語 : rauh(上級語) /tekad(普通語)
カウィ語 : prapta

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日本語 :すでに到着した
インドネシア語 :sudah tiba
バリ語 :sampun rauh (上級語)/ suba tukad (普通語)
カウィ語 :wus prapta

という感じ。どれもこれも全然違う。バリ人がワヤンを習う時は、バリ語に関しては勉強する必要がないので、新たにカウィ語だけ理解できるようになればいい。しかし、外国人の僕はバリ語とカウィ語という未知の言語を2つ同時に覚えて、約1時間の上演に必要なセリフに落とし込まなくてはならない。

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とにかくこれはいくら時間があっても足りないと思い、今年の初めからワヤンの台本製作に取り掛かる。まず、ナルタさんから演目の「オリジナル台本」をもらって、それを清書するところから始める。本来ワヤンのセリフは即興の要素が強く、台本はあってないようなものなのだが、僕が外国人なので、ナルタさんはわざわざ普段は使わない台本を用意してくれた。しかし、この「オリジナル台本」が筆記体の走り書きで解読困難。この「オリジナル台本」の数行を四苦八苦しながらパソコンで清書。次の練習に持って行って、誤字脱字を修正する。同時にバリ語、カウィ語それぞれの意味と、台詞の内容をインドネシア語に訳してもらう。わからなかった言葉は、練習後にカウィ語、バリ語、インドネシア語のそれぞれの辞書で調べる。これの繰り返しで半年ほどかけて自分専用の台本を作った。先日、この連載を企画してくださった昌福寺のご住職がバリに来た時に、この作業の話をしていて「これは昔お坊さんが中国に渡って仏教経典を訳したりする作業とおんなじようなものかもしれませんね」みたいな話になった。

4月中頃、ようやく最後まで出来上がった「自分専用台本」で台詞の暗記を始めた。運転中や料理中、時間のある時にひたすら復唱する。バリ語、カウィ語両方とも未知の言語なので、実際のところ2言語使っているという感覚はまだなく、とにかくひたすらに暗記。カウィ語は、キャラクターによってメロディ(節)がついているので、それも合わせて覚える。ようやく覚えて、人形と合わせて動かせるようになってくると、ナルタさんがセリフを足してくるのでまた覚え直す。延々とそれを繰り返す。

下手くそなりに台詞も覚え、音楽に合わせて人形も動かせるようになって来て、バリの知り合いから「そしたら滞在中にワヤンのお試し上演してみたら?」と言われた。まさかそこまでいけるとは思ってもいなかったので、試しにナルタさんに相談してみると、真剣な顔になって1冊の本を出して来た。「もしワヤンを上演するなら、上演に必要な呪文を覚えなきゃね」と言って渡されたその本には、膨大な呪文が書かれていた。。。僕はこれから更にこの呪文を覚えることになる。

つづく。

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7/15バリ島BENTARA BUDAYA BALIにて影絵と音楽ソロ公演

先週末、バリ島にて、インドネシアの大手新聞社KOMPASが主催するBENTARABUDAYAというスペースにてワークショップと初影絵ソロ公演やりました。

ワークショップは影絵の本場だけあって、なかなかディープな会になりました。

パフォーマンスはたくさんのお客さんに来ていただき、終わった後の反響もかなりあって、もしかするとインドネシア滞在中にもう1度公演やる可能性もあり!20139929_1230161970440490_5726551511985919807_n 20140165_1230161920440495_6998064731556328630_n 20032082_1230161900440497_1027160226972823881_n 20046381_1230161907107163_9172252979861413216_n 20155966_1230161997107154_4411868297094521401_n20229085_1230161937107160_4107829527145691662_n

 

ひざくりげINDA INDO NESIA 8  アイ ラブ バリ を着る男

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第八話 I BALI を着る男

影絵の伴奏楽器「グンデル」の師匠・サルゴさん(自称65歳)には、弟(自称62歳)がいる。練習していると、自慢の白いベスパに乗ってやって来て練習を眺め、たまにちょっかいを出して帰っていく。そんな師匠の弟の本職はお坊さん。サルゴさんの家では「パマンク(お坊さん)」と呼ばれている。バリ島では家単位、村単位、島単位のありとあらゆるお祭りがほぼ休みなく行われていて、彼も儀式の時は上下白の装束で登場し、粛々とお経を唱える。「ひざくりげ」バビグリンの回で、師匠の楽器の儀式を行ったのも彼である。

 

ヒョロヒョロと痩せたサルゴさんに比べ、パマンクさんは恰幅が良く、長髪を後ろに束ねている。若い頃は、お祭りの余興で開かれる舞踊劇で「ビマ」や「ガトカチャ」と呼ばれる、バリで人気の荒型の踊りをよく踊っていたそうだ。60歳を超えた現在も現役で、観光でも知られる獅子舞「バロン」や魔女「ランダ」の踊りも踊るそうだ。特に儀礼で踊られるランダの踊りは、みんな踊るのを恐がって踊れる人が少ないので、お坊さんでもある彼が良く指名される。

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先日も、サルゴさんの家で練習していると、パマンクさんは「I BALI」とデカデカと胸に書かれたタンクトップと、それとお揃いの青いジャージを履いてやって来た。冗談かと思う格好をしていたので、思わず写真を撮ってしまった。その時は、日本から来た整体師の友達が、練習後のサルゴさんに施術をすることになっていて、パマンクさんはそれを見物に来たのだった。(あわよくば、自分もマッサージしてもらおうとしていて、その願いは後ほど叶うことになる。)

サルゴさんの施術を傍で見ている間、パマンクさんはいつものように冗談話をしていたが、「日本はお金持ちの国だと思うんだけど、バリは貧しかったよ」という前置きをして、いつの間にか彼の子供の頃の話をはじめた。

「土でできた床は暖かかった」

今から50年以上前のバリの話。昔のバリの家は、地面から50cmほど土をもり、それを平らに均しものに屋根をつけただけのものだったらしい。今ではバリのどの家でも、その床はセラミックなどで作られていている。昔に比べて清潔に見えるし、雨の時に泥だらけにならなくて済むが、あまり長い時間座っていると体がかなり冷えてくる。それに比べて土の床は、土そのものの暖かさが伝わって暖かく、気持ちが良かったそうだ。

「最近の人は、サンダル履いちゃうから、足の裏がツルツルで良く滑る」

その頃の人たちは、裸足で生活していた。だから、足の裏の皮がとても厚く、ガサガサしていたようだ。足の裏の話をされて、東バリにあるバリ先住民の村「トゥガナン」に行った時のことを思い出した。トゥガナンは、観光地としても開かれていて、古いバリの住居や、道がそのまま残されている。山の中腹にある村は、大きさが不揃いな石畳の坂道で構成されている。僕がトゥガナンに行った日は雨が降っていたので、石畳をサンダルで歩くとつるつる滑って大変だった。これは昔の人も大変だったろうな、とその時思ったのだが、もしこれが裸足だったらそんなに滑らないんではないか、とパマンクさんの話を聞いて思いなおした。

「昔のご飯は、味気なかったけど、みんな健康だったよ。最近使われてる調味料は、口で美味しいって感じるけど、お腹が美味しがっているかわからないよね。だって、わしらはそれを食べてたくさん病気してる。」

サルゴさんとパマンクさんは一緒に小学校に行っていた。その頃、朝食はなかった。小学校が終わって昼過ぎに帰って来ても、まだご飯ができないこともあった。ご飯といっても、今のような白米ではなく、米と芋、もしくはトウモロコシを混ぜ合わせて炊いたもので、お米の分量はほんの少しだった。7ヶ月に1度訪れる島を挙げてのお祭り「ガルンガン」の時にだけ、白米のご飯を食べた。もちろん、肉(豚肉)も、そのお祭りの時にだけ食べられるご馳走だった。普段は、唐辛子とニンニク、塩を少々の油で炒めたものをおかずにしてご飯を食べた。基本的には夕ご飯はなく、昼作ったものが余っていたら、夜その残りを食べる程度だった。

「別に昔が良かったとは言わないよ。だって今の方が断然豊かだもの」

誰もお金を必要としていなかった。小学校の教科書や筆記用具は、学校が支給してくれたそうだ。現在、パマンクさんには、8歳になる孫がいる。小学校に入学する時に、教科書、筆記用具を買うのはもちろん、建物新設のための補助金を払わなくてはいけない。さらに中学校になると、通学のためのバイクや、今や全世界で必需品になろうとしているスマホを買ってあげたりと、何かにつけてお金がかかってしまうそうだ。「おじいちゃんの子供の時は、バイクなんて村に2、3台しかなかったんだぞぉ〜」と自分の子供時代の話を孫に向かってすると、「おじいちゃんの時代と一緒にしないでよ〜」と言われてしまう。日本でもよく聞く話である。

バリ島が世界中から地上の楽園といわれて久しい。僕を含めた多くの外国人が、観光で訪れるようになった。現代社会の枠組みの中に入れられたバリの人々は、多くの変化を要求されている。それは昔の日本の姿と重なる部分もある。数万円で世界中を旅できる今、楽園たるべきその本来の姿をそのままに保持していくのは難しいだろう。

それではどのようにして生きていこうか?「別に昔が良かったとは言わないよ。」というパマンクさんの言葉に考えさせられる。

50年前、サルゴさんとパマンクさんは、小学校の帰り道に道端に生えているバナナや、人の家のパパイヤとかマンゴーとか、目に入った果物を勝手に取って食べていた。たぶんこの二人だけじゃなくて、当時の島の子供たちは、お腹を空かした昼下がりに皆そうしていたのだろう。そういう豊かさをバリ島はもっていた。

「昔は人の家のパパイヤを勝手に取っても、誰も怒ったりしなかったよ。みんながそれでいいと思っていた。お腹は空いていたけど、みんな健康だったし、それで幸せだった。」

笑いながら話すパマンクさんのタンプトップには、冗談みたいなI BALIが光っている。

つづく。

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ひざくりげ INDA INDO NESIA 7  ジャワ島布と鉄道の旅と娘の友達

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同時連載

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第七話 ジャワ島布と鉄道の旅

2_ジャワの鉄道

何年も前から、母が中部ジャワに残る世界最大級の仏教遺跡「ボロブドゥール寺院」に行きたいと言っていたので、家族旅行も兼ねて僕と妻と娘(8ヶ月)と母の四人でジョグジャカルタに行く。出不精の父は日本でお留守番。壮大な仏教遺跡で日の出を拝み、超高級ホテル「アマンジワ」のランチを食べたりして数日過ごした後、妻と娘と母はバリ島に戻り、僕は一人ジャワ島バティック産地をめぐる鉄道の旅に出た。

インドネシアの名産品バティックのほとんどはジャワ島で作られている。日本では「ろうけつ染め」と言われているバティックは、主に腰巻に使われる布にロウで図柄を描き、そのあと染料に浸して色をつける。ロウをつけたところには色が入らないで白く残って模様になる。絵付けの方法は手描きか、銅版スタンプの2種類。手描きバティックは伝統的に女性の仕事であり、今でも工場やお店の軒下で女性たちが絵付けをしている風景が見られる。手描きバティックの最高級品は、絵付けに半年~1年かかるものもあり、そういったバティックは何百万円にもなるという。
3_車窓
昨年末にバティックの中心地である中部ジャワの「ジョグジャカルタ」と「ソロ」の2都市には行ったので、今回は「辺境のバティック」を探しに行くことにした。バティックの産地は、東西に広がるジャワ島の北岸に集中している。もともと、大陸との貿易が盛んだった港街に、バティックを買い求める商人が多く集まったことが始まりだと思われる。ジャワ島には、この北岸の港街をつなぐ鉄道が走っていて、今回はその鉄道に乗ってバティック産地を巡った。僕は決して「鉄ちゃん」ではない、と自分では思っているが、鉄道が張り巡らされた日本から、ほぼ鉄道のないインドネシアに来ると、なぜだか無性に列車に乗りたくなった。

車窓からは、延々と続く田園と椰子の森、広大な緑。

ジョグジャカルタから北西に4時間。西ジャワの街「チルボン」がこの旅最初の目的地。ジャワ島は大きく分けて西ジャワ、中部ジャワ、東ジャワの3つの文化圏がある。チルボンには王宮があり、現在でも王族が住んでいる。4_チルボンのバティックコンパニ
「バティック・コンパニ(植民地時代のバティック)」といわれるこの街発祥のバティックは、主にオランダ占領時代に確立されたデザイン。兵隊や、船、働く人たちをモチーフにした図柄が多い。上品で細密的な中部ジャワの王宮バティックに比べて、素朴でどこか間の抜けた感じがとてもいい。
チルボンのバティック街には、100件以上のバティック屋が立ち並び、お店ごとに大量のバティックが山積みされて売られている。お気に入りの一品を探すには相当の覚悟がいる。まして、「バティック・コンパニ」は少し時代遅れのデザインなので、置いている店も少ない。置いてあったとしても、年代物の高価なものが多くて手が出せない。炎天下の中、2日間探し続けて、気に入ったバティックを数枚見つけた。

チルボンから東へ2時間、第二の街は中部ジャワ北岸に位置する「ペカロンガン」。ここでは女性に人気の花柄バティックが量産されている。小さいが趣のある街並みが美しい。5_ペカロンガン_花柄バティック    6_ペカロンガンのバティックドンゲン
ペカロンガンのバティックミュージアムでは、ガイドさんがとてもよく解説してくれたので、この街のバティックの歴史とメンタリティを知ることができた。ペカロンガンのバティック職人は古くから中国、ヨーロッパ、インド、日本の影響を受け、高い技術と海外のデザインが融合した新しいバティックを作り続けてきた。一つ例を挙げると、「バティック・ドンゲン」と言われる、ヨーロッパの民話(シンデレラや白雪姫など)をモチーフにしたバティックがある。その昔ジャワ人と結婚してペカロンガンに移住したヨーロッパの女性が、生計を立てるために、祖国のモチーフを使ってバティック作り始めたことがきっかけになっている。新しいものを取り入れることに、抵抗のない気風を感じる。ジョグジャカルタやソロのように、描かれた模様に哲学的意味を求めるというよりも、美的センスや、良い意味で「売れるバティック」を作ることが、この街では大切とされている。7_マドゥラ島に渡る船

この旅の最終目的地「マドゥラ島」には、ペカロンガンから鉄道で東に5時間、東ジャワの中心地でインドネシア第二の都市・スラバヤから船か橋を渡っていく。日本と比べてのんびりしているインドネシアの鉄道。ペカロンガン出発が2時間も遅れ、駅で待ちぼうけの時間を合わせると7時間かかってスラバヤに到着。この日は街のホテルで1泊して、次の日の早朝マドゥラ島に出発。一見すると瀬戸大橋のようなスラマドゥ大橋を横目にフェリーで島へ渡る。バティックの中心地・パムカサンまではさらに車で4時間。幹線道路は一つしかなく、時々起こる渋滞にうんざりしながらパムカサンに着く。
ネットなどで調べてもパムカサンの情報がほぼなかったので、街のバティック市場に行ってみる。田舎町なので見た目は閑散としていたが、置いてあるバティックの量がこれまた大量で、一通り眺めるだけでも1時間以上かかった。マドゥラバテックは、荒々しく抽象的なデザインで有名。手頃な値段のものが多かったが、これはいい!と思ったバティックは、やはり年代物の超高級バティックでびっくりするような値段だった。8_マドゥラ島のバティック

近年、バティック柄を模したプリント生地が多くなり、手描きバティック職人が減ってきていると聞く。一見普通の布に見えても、広げてみると、ブワッと凄まじいエネルギーを放つのが手描きバティックの魅力である。そんな歴史と人間をまるごと染め込んだような布たちが、年々少なくなってきているのを残念に思う。
布との出会いは、まさに一期一会である。

バティックをめぐる1週間の鉄道旅を終え、バリに戻ると嬉しい再会があった。
僕は2011年、あの大混乱の年に、当時ガムランを教えていた地元の小学生たちと、夢の島の大きなフィールドで飴屋法水さんの「じ め ん」に参加した。その当時、参加していた子供から「大きくなったら一人でバリに遊びに行きたいんだけど、いくらあったらいけるかな?」と聞かれた。なかなか面白い子だな、と思っていたら、先日その子が本当にバリに遊びに来た。しかも初海外。あれから6年、大人にとってはあっという間である。僕の娘は年の近い~と言っても18歳離れている~友達ができたと思って大喜び。僕は「イケイケ」という言葉が通じず、「たぶんそれは『パリピ』っていうんだと思います」と言われて少々凹んだ。
そういえば、僕が初めてバリに来たのも、19歳の時だった。
つづく。

9_飴屋法水「じめん」2011   10_娘の友達

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